2019年 12月 16日 (月)

死去の中曽根康弘氏、101年の生涯 青年将校から風見鶏、大勲位、そして「暮れてなお命の限り蝉しぐれ」の心境へ

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   5年にわたって長期政権を維持し、国鉄民営化、行政改革などで実績を残した中曽根康弘元首相が、亡くなった。101歳だった。2019年11月29日、NHK、共同通信などが報じた。

   若いころは「青年将校」、小派閥で苦労していたころは「政界の風見鶏」、現役政治家として頂点を極めた後は「大勲位」と呼ばれた。衆議院議員を20期務め、85歳で政界を引退したが、その後も「憲法改正」などでマスコミに登場することが多く、保守政界の最長老。戦後政治史の生き字引的存在で、生涯現役に近かった。

  • 「ロン・ヤス」の仲で知られたロナルド・レーガン元大統領と。1986年
    「ロン・ヤス」の仲で知られたロナルド・レーガン元大統領と。1986年

リクルート事件で「自民党離党」も経験

   群馬県出身。実家は関東有数の材木問屋。高崎中学、静岡高校を経て東大法学部卒。内務省に入るが、海軍短期現役制度で海軍主計中尉に。実際に巡洋艦に乗ってフィリピンやインドネシアで襲撃を受け、戦死者多数。「阿鼻叫喚の地獄絵」を体験した。戦後、内務省に復帰、香川県警務課長をしていたが、「過激な左翼から郷土を守らねば」と政治家を志す。1947(昭和22)年、群馬3区から初当選。28歳だった。

   大柄で太い眉、青雲の気にあふれた雰囲気から、「緋縅の鎧(ひおどしのよろい)をつけた若武者」と持ち上げられた。自主憲法の制定や首相公選などを血気盛んに訴え、「青年将校」の異名も。民主党、国民民主党、改進党を経て自民党に。河野一郎氏の衣鉢を継いで中曽根派をつくったが、保守傍流だったので派閥の運営や入閣などで苦労し、「三角大福」の後塵を拝すことを強いられた。政局の風向きを読んで巧みに立ち回ることから「政界の風見鶏」と揶揄された時期もあった。

   80年、鈴木善幸内閣の行政管理庁長官になり、「第二次臨時行政調査会」をスタートさせる。82年、首相になった時は田中角栄元首相の支援を受けていたので「田中曽根内閣」などと陰口をたたかれた。国鉄などの民営化を強力に進め、「民活」「規制緩和」が中曽根内閣のスローガンに。公有地の払下げなどで経済活動を活性化させた一方で、不動産バブルへの道を開く形にもなった。

   歴代の首相の中では国際的なプレゼンスが際立った。米国・レーガン大統領とはファーストネームで「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係。英国・サッチャー首相や韓国・全斗煥大統領とも個人的な信頼関係をつくり、首脳外交を進めた。首相が大きな権限を持つ「大統領的首相」として権勢を誇り、3次にわたって組閣、87年、竹下登氏を後継に指名して退陣した。

   89年、リクルート事件で秘書が未公開株をもらっていたことから、離党に追い込まれる。自民党の総理経験者で離党したのは田中角栄氏に次いで2人目。90年には派閥を渡辺美智雄氏に譲った。91年に復党し、96年には自民党の比例北関東ブロック終身一位に。97年、最高レベルの勲章「大勲位菊花大綬章」を受章して、「大勲位」と称されるようになった。03年、定年制導入などで、政界から引退した。

読売新聞の渡辺恒雄氏とは盟友関係

   代議士になりたてのころ、読売新聞の中興の祖で、科学技術庁の長官も務めた正力松太郎氏と関係を深め、日本の原子力政策を積極的に推進。議員立法で8本の原子力法体系などを成立させた。初入閣も科学技術庁長官。読売新聞政治部の若手記者だった渡辺恒雄氏はこのころ、正力氏の指示で、中曽根氏と知り合った。

   「当時の基準だと、私はハト派。対する中曽根さんは『憲法改正の歌』などを作る超タカ派だったから、心情的に会う気になれなかった」(『渡邉恒雄 私の履歴書』、日本経済新聞社)。しかし会ってみると、「政治家には珍しい読書家で歴史、政治、哲学と知識も該博」「すぐに打ち解けて親しくなった」。

   その後の中曽根-渡辺の蜜月ぶりは有名で、首相当時は「毎日のように電話で話をしていたから、読売新聞の社説と中曽根内閣の政策が対立することはほとんどなかった」(渡辺氏)

   NHK会長だった島桂次氏は中曽根政権時代、2か月に1度ぐらい公邸に呼びつけられた。著書『シマゲジ風雲録 放送と権力・40年』(文藝春秋、95年刊)によると、こんな感じだ。

    「(中曽根首相は)『島君、最近のニュース番組などには、いろいろ問題があるじゃないか。政府に不利なことをやりすぎる傾向がある』と言って、分厚い紙の束を取り出す。NHKのニュースを文字におこししたもので、気に入らない部分にはアンダーラインが引いてあった・・・『この報道は一方的だ』」。そして読売の社説を掲げながら、よくこう言った。「島君、読売の論調は素晴らしいね。渡辺君は、なかなかよくやってくれている。各新聞社の首脳にも、これを回覧して読ませたいくらいだ。NHKも、おおいにこれを参考にしたまえ」

同期の田中元首相と明暗分ける

   ライバルとして意識していた田中角栄氏(1918~93)とは、生まれたのも同年なら、代議士になったのも昭和22(1947)年の第23回総選挙で同期。だが、戦後すぐに保守政党に巨額政治献金をするだけの財があった田中氏と、エリート官僚出身とはいえ、特段の肩書もなく徒手空拳、自転車で選挙区回りしてやっと当選した中曽根氏とはスタート時点でやや差があった。

   その後も、実務に長けた田中氏が保守本流を歩み、39歳で郵政大臣になったのを皮切りに40代で自民党政調会長、大蔵大臣、幹事長と主要ポストを総なめにして72年、54歳で首相になったのに対し、中曽根氏は長く非主流にとどまり、田中政権でようやく通産大臣として主要閣僚の仲間入り。首相になるのは10年遅れた。

   最終的には田中氏がロッキード事件で「闇将軍」となることを余儀なくされたのに対し、中曽根氏は長期政権を担い、その行賞として「大勲位菊花大綬章」を生存者受章した。戦後の首相では吉田茂氏、佐藤栄作氏に次いで三人目。保守政治家としての栄達を極め、二人の晩年は明暗を分けた。

「侵略戦争」国会で答弁

   ある時期までの中曽根氏は、「ハデな言動や君子豹変をくりかえした」(政治学者の御厨貢氏)。しかし、年月を経につれ、群馬特産の蚕のように脱皮を重ねて少しずつ姿を変える。

   長年近くで接してきた渡辺恒雄氏は、中曽根氏が政治経験を積んで、幅を広げ、謙虚に人の言うことを聞くようになったと指摘、「権力者になって、良い方に変わった」「あれほど聡明な男だとは、思わなかったね」と評価した。(『専横のカリスマ』、大下英治著、さくら舎)

   読売新聞によると、83年には、国会答弁で首相として初めて「侵略戦争」を認めた。改憲論者だったが、首相時代は「現内閣において、憲法改正を政治日程にのせる考えはない」と無理押しはしなかった。

   原発を積極的に推進したが、3・11後は、「この辺で原発中心のエネルギー政策を根本的に再検討したらいいと思っています」とも語っている。

引退後も政治に発言を続けた

   引退後も、世界平和研究所の会長として影響力を残し、引き続き憲法改正に取り組むとともに、『自省録-歴史法廷の被告として』(新潮社、2004年)、『日本の総理学』(PHP新書、2004年)、『保守の遺言』(角川書店、2010年)、『わたしがリーダーシップについて語るなら』(ポプラ社、2010年)、『中曽根康弘が語る戦後日本外交』(新潮社、2012年)など、回顧録やリーダー論を精力的に出版、自らの業績を正確に歴史に刻印しようと努めた。

   2011年以降は、首相時代も含む直筆のメモや書簡なども含む政治活動の記録を、国会図書館に寄託。2018年7月の毎日新聞記事によれば、「出したくない」ものの扱いを尋ねた秘書に「いいところだけ出すと、ゆがみを生ずる。全部出さないと公正な判断ができない」と話したという。国会図書館憲政資料室のウェブサイトにその目録が公開されている。

   90歳を過ぎても「昔と同じように志は天下にある」と、現実政治に発言を続け、15年8月には読売新聞に長文を寄稿。先の大戦を「やるべからざる戦争であり、誤った戦争」と総括。同12月には東シナ海や南シナ海の緊張緩和のため常設機関を設置すべしという「東アジアの海洋安全保障に関する中曽根提言」を発表した。

   「青年将校」などと呼ばれ、「武人」のイメージが強かったが、古今の古典を読み、俳句や絵を描くことが趣味。事務所の椅子の背後には、カントと仏陀の像を置き、後ろからカントと仏陀が見守っている、そういう気持ちを自分でつくっている、と明かした。12年8月、サンデー毎日で細川護熙元首相と対談したときは、「最近の政治家には個人の人生観、世界観といった心情に関する言動がない。修行がないためでしょう」と嘆いた。

   このとき94歳。「今の境地を一言で表現すると、どんなお気持ち」と細川氏に聞かれると、「暮れてなお 命の限り 蝉しぐれ」という心境ですな、と答えた。この句は、かなり以前に詠んだものだが、最晩年になっても、「生涯現役」の気迫とエネルギーを保ち続けたことを示していた。

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