2020年 2月 24日 (月)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(39)
「戦陣訓」が「魔の呪文」だった理由

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   1941(昭和16)年1月に陸軍大臣東條英機の名により軍内に示達されたのが、「戦陣訓」である。この時から終戦時(1945(昭和20)年8月)まで、戦場の兵士たちを拘束、あるいは束縛したのが、この戦陣訓である。極めて指導者にとっては都合の良い教えだった。

   戦陣訓は長文ではあるにせよ、主要点は限られている。例えば、「第七 死生観」には「死生を貫くものは崇高なる戦闘奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」とある。そして最も有名なのが、「第八 名を惜しむ」だが、ここには「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱めを受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とあった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん

島崎藤村も「熱心になり、時間をかけて名文に」

   全体にこの戦陣訓はあるリズムを持っていて、口に出して奉じてみれば美文調の自己陶酔できる語彙が並んでいる。しかし兵士たちには「魔の呪文」と言ってもいいのではなかったかと思われるのだ。戦場の兵士たちにとっては常に背後から「生きて虜囚の辱めを受けず」という語が追いかけてくる状態だったのである。

   20世紀の戦争にはルールがあり、どの国もそのルールに基づいて戦闘を続ける。戦争と言えどもできるだけ命を大切にする、死の確率の高い戦闘では現地の司令官の判断によって捕虜になっても構わないとのルールがあった。

   ところが日本軍は戦場での司令官とて現場サイドの自主的な判断は許されない。東京の参謀本部作戦部の命令によって決まる。「最後の一兵まで戦って死守せよ」と命令するのだから、兵士はそれを受け入れる以外には途はなかったのだ。

   もともとはこの訓示は、陸軍の教育総監部の本部長であった今村均が、東條の命令によって作成したものだった。東條は、日中戦争下で日本兵が捕虜になったり、戦闘が不利になると撤退したりすることに不満を持っていた。弱兵すぎるというのであった。そこで今村に訓示を作るように命令したのだが、今村は今村で別な思惑があった。日中戦争の戦場では日本兵の乱暴が問題だ、規律を正さなければならないと感じていたのである。東條との間には若干のズレがあったのだ。

   今村は部下に、ひとまず案をまとめさせた。いわば軍としては兵士にどのようなことを期待するか、を列挙させたと言っていい。この案を日本語としてわかりやすく、いわば精神訓話として唱和できるようにということになるであろう。東條は、こういう時には必ず高名な作家、評論家に文章を手直しさせるのだが、この時は島崎藤村に教育総監部の下案を届けさせた。藤村も熱心になり、時間をかけて名文にしたというのである。

石原莞爾「こんなもの読む必要はない。倉庫に積んでおけ」

   陸軍内部に示達されると、ちょうどこの頃は東條が陸軍の権勢を握りつつある時で、各地の師団長や連隊長が率先して普及の役割を引き受けた。例えば兵士たちに、毎朝この戦陣訓のエキスを復唱したり、筆記させたりして東條のご機嫌を伺う高級将校もいた。自分の部隊の兵士に「戦陣訓レビュー」と称して足を上げて踊らせる者もいた。京都の師団長だった石原莞爾は「こんなもの読む必要はない。倉庫に積んでおけ」と命じて素知らぬ態度で接した。すでに日本軍は、「軍人勅諭」があるではないかというのであった。石原のような少なくとも理論を持つ将校は、これは胡散臭い通達だと知っていたのである。

   さて太平洋戦争では、この戦陣訓は戦場にあっては身を正せと言った良き風潮に使われたこともある。その反面で1943(昭和18)年5月のアッツ島玉砕から始まって、10を超える戦場での玉砕を生み出している。この全てに「戦陣訓」が果たした役割は大きかった。玉砕を避けて捕虜になったり、撤退したりすると悪し様に「卑怯者」と難詰されたりもした。東條や今村にはその責任もあると言っていいだろう。東條は特別にその責任を取っていない。それに比べると、今村は責任を痛感していたらしく、「あの戦陣訓は誤りだった。もっと具体的に、ものをとってはいけないとか、乱暴をするな、などと指摘をしておくべきであった」と漏らしている。そうした反省ははっきりとは語られないにしても、今村は戦後の自著の中で語ってもいる。その反省が救いといえば救いである。

   今村は1942(昭和17)年11月から第八方面軍司令官のポストに就いた。ガダルカナル戦の撤退などで冷静な判断をする司令官であった。戦後はBC級戦犯にも問われたが、その部下思いの服役態度はアメリカ側を感心させている。それだけに戦陣訓の考案の責任者と言われるのは不本意なのであろう。(第40回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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