2024年 4月 23日 (火)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(52)
第3期国定教科書が促した「市民社会の自覚」

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大正デモクラシーが「日本の進む方向」として自覚されていれば...

   この他にも1923(大正12)年以降、次々と大学が増えていく。地方にある医学専門学校が大学となっていくケースも多い。こうした大学の新規の設立に際して、帝国大学を絶対視する勢力(例えば帝国大学教授、枢密院、貴族院などの議員など)には異を唱える者も存在した。原内閣はそういう意見に対して、社会の変化に対応するためには、このような教育機関からの人材が必要であると答えている。

   こうして大学教育が「帝国主義型人材の養成」から「新中間層の養成」に広がると同時に、そういう人たちに読まれるように様々な雑誌が刊行され、文学全集なども相次いで出版されるようになった。活字文化だけではなく やがて映画、ラジオなども一般向けに公開されるようになった。新中間層は知識人という階層を構成するようになったのである。いわば日本にも、市民という階層が誕生したとも言えるであろう。

   第3期の国定教科書が、大正デモクラシーの影響を受けていると言う意味は単にその内容を指しているだけではなく、社会全体が市民社会の自覚を促す方向に進んだと言えるように思う。もしこの時代が日本の進む方向として明確に意識されていたならば、現代日本も大いに変わったであろうとは容易に想像されるところである。

   この反面、大正時代の社会変容について、最も大きな問題は二つあるといっていいであろう。一つは1923(大正12)年9月1日の関東大震災である。この影響については可視と不可視の分析が必要である。もう一つは 、大正天皇の体が優れず、つまりは20歳の皇太子(のちの昭和天皇)が摂政宮に就任したことである。この二つが大正デモクラシーにどう影響したか、それも重要なテーマなのである。

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