「今夜はみんな、ヤンキースの試合より大統領選の討論会の方が、関心があるに違いないよ」(ニューヨーク市内のバー経営者)――。2020年9月29日夜(米国時間)から始まる米大統領選・第1回候補者討論会のテレビ中継をその店で見られることを電話で確認し、マンハッタン南部のグリニッジビレッジにあるバーに向かった。今回のこの連載では、一緒に討論会を見た街の人たちの様子を報告する。テレビ中継で同じテーブルに着く見知らぬ客たち友人のサラが「自宅で一緒に討論会を見よう」と誘ってくれたが、断った。サラは「トランプはヒトラー」が口癖なので、討論会での彼女の反応は予想できた。コロナ感染予防のために、ニューヨークではその日まで店内での飲食は禁じられていた。外にテレビを設置している店は少なかった。向かっていたバーは、私が80年代半ばに住んだグリニッジビレッジにあった。地理はよくわかっているはずだったが、道に迷った。店員に道を尋ねるため、別のバーの前で足を止めると、私が空席を探していると思ったのか、外のテーブルでビールを飲んでいた白人男性ポール(仮名)が、「ここにすわりなよ」と自分の隣の席を指さした。そのバーにもテレビがあり、ヤンキースの試合ではなく、討論会がまもなく始まろうとしていた。私は急きょ、ここで仲間に加えてもらうことにした。テーブルには私のほかに3人いたが、誰もマスクをしていなかったので、ややためらいがあった。私の前の男性は討論会が始まる前に帰り、あとから20代の女性がやってきて、そこにすわった。大学を卒業したばかりだという。誰もが、他人同士だった。開始前から白人女性と黒人男性が口論ポールは「僕がおごるよ」とビールを注文してくれた。彼は現職のトランプ大統領を支持しているという。その後、彼は何度も「君も一緒にすわれてよかった。僕らの仲間だよ」と私に声をかけてくれた。彼の前にいた黒人男性ジョナサン(38)は、コンドミニアムのコンシェルジェとして働いている。「どっちが大統領になったって、黒人にとっては何も変わらない。システミック・レイシズム(systemicracism=制度化された人種差別)がなくなるわけじゃないから、僕は投票しない」と言う。2020年5月、民主党の大統領候補ジョー・バイデン氏が黒人のインタビューアーに対して、「もし私かトランプか迷っているとしたら、君は黒人じゃない("Ifyouhaveaproblemfiguringoutwhetheryou'reformeorTrump,thenyouain'tblack.")と発言したことに、ジョナサンは腹を立てていた。「黒人はみんなバイデンに投票しろ、って言うのか。黒人はみんな、同じなのか。おかしいだろ」20代の女性が言う。「私はトランプには絶対、再選してほしくない。プッシー(女性器の卑語)がどうのこうのなんて言うやつ。女として腹立たしいわ」「君は白人女性だ。黒人男性の僕より、ずっと恵まれてるさ」「女性だって同じように、虐げられているわ」「君は僕じゃないんだ。わかったような口をきくな」こうして、2人の間で激しい口論が始まった。公的医療保険、コロナ、経済......目の前のテレビ画面に、米中西部オハイオ州の会場にトランプ大統領とバイデン前副大統領が現れる様子が映し出された。公的医療保険についてバイデン氏が、「トランプには何のプランもない」と攻撃したのに対し、トランプ氏が「オバマケアは保険料が高すぎる。ひどい制度だ」とやり返すと、ジョナサンが大声で、「オバマケアのせいで毎年、800〜1200ドルも罰金を払わされることになったんだ」と怒りを露わにした。すると、後ろのテーブルにいた、このバーの店員で黒人男性のエイサー(35)が、「オバマケアで誰もが医療保険に加入できるようになったのは、当時、バイデンが副大統領だったからだ」と反論。ここでも、激しい言い合いが始まった。2014年にオバマケアが施行されると、医療保険の加入が義務付けられ、2016年までに無保険者の割合は半減した一方で、無保険者には罰金が課され、その額は年々急騰していった。討論中、質問に答えようとしないバイデン氏にトランプ氏が横槍を入れると、バイデン氏が「おい、黙れよ!(Willyoushutup,man?)」と言い放ち、バーで見ていた人たちが一斉に笑った。「shutup」はかなりきつい表現で、私も高校時代に初めて渡米した時、「うるさい」と言う程度の気持ちでこの表現を使い、ホストマザーに厳しく叱られたことがある。バイデン氏がトランプ氏について「この道化師、いや、この人(thisclown,Imean,thisperson)」と言い直した時にも、笑いが起きた。後ろのテーブルにいた男性4人のうち、3人はバイデン、1人はトランプ支持だった。脇のテーブルでは、韓国系やフィリピン系の男性たちが、終始、静かにテレビ画面を見つめていた。バイデン氏がトランプ氏のコロナ対応を批判すると、トランプ支持のポールが立ち上がってテレビ画面を指しながら、「それはこの国の責任か? チャイナだろ! チャイナ!」と怒鳴り散らした。「うるさい! 黙れ!」とジョナサン。すると、後ろのテーブルから誰かが、「マスクをしろ!」と画面のトランプ氏に向かって叫んだ。経済は「V字型」の回復を見せているとのトランプ氏の主張に、後ろのテーブルにすわっていたメキシコ系アメリカ人(44)が声を上げる。「違う! 白人至上主義だ! 黒人やヒスパニック系にこんなに失業者がいるじゃないか! 消え失せろ! 株価が戻ったからって、みんなが株を持てるわけじゃない。経済とは関係ない!」彼の話を聞くために近くに移動すると、「でも実際、俺は株で大儲けしたんだ」と私の耳元でささやき、笑った。さらに、トランプ氏が2016年度と2017年度の連邦所得税を750ドル(約8万円)しか払っていないと報道されたことに話題が移り、トランプ支持のポールが大声で叫んだ。「そんなことをやってのけるなんて、トランプは天才だな。税金なんて払いたいやつ、いないだろ」黒人をハグするトランプ支持の白人ジョージ・フロイド氏殺害の話題で、トランプ氏が聖書片手に教会の前で写真撮影のためにポーズしたことをバイデン氏は批判したものの、警察による暴力そのものについての議論がなかったことに、ジョナサンは不満を露わにし、自分の頬を左の手のひらで素早く何度も叩いていた。トランプ氏がいかに警察などの法執行機関の支持を得ているかに触れると、「そんなことどうでもいい」と黒人のジョナサンが反発。するとポールが、「俺には大事なことだ」と言い返す。司会者クリス・ウォレス氏の「システミック・レイシズムは存在しますか」との質問に、黒人のジョナサンが「これを聞きたい。静かにしろ!」と立ち上がり、画面の前まで移動し、食い入るように見つめていた。バイデン氏が「警察の予算削減には反対だ。警官は地域住民のことをもっと知るべきだ」と訴えると、ジョナサンが「警察には人種差別がある。俺は7回も不審者扱いされて、呼び止められたことがあるんだ」とつぶやく。白人のポールが「人種差別じゃない。俺は完璧な白人だろ。この手の傷を見ろ。見てみろ! 警官に切られて、血が吹き出した」と言い返す。確かに、彼の手の甲に深い傷跡が残っていた。「お前は完璧な白人だ。だから、背後から撃たれたりはしないんだ!」とジョナサンが怒鳴る。「俺の手を見ろ! あんな痛い思いは、誰にもさせたくない」ポールはそう言うと、ジョナサンに駆け寄り、「お前のこと、大好きだよ(Iloveyou.)」と言って握手の手を差し出し、2人はハグし合った。店を出るときには、お互い「会えてよかった」このあと、バイデン氏が、「私の息子は軍人で愛国者だった」と言うのを、ジョナサンはうなずきながら、聞いていた。別れる前に、ポールがジョナサンについて、私に話してくれた。「あいつは軍人だったんだ。俺はあいつを尊敬している」私たちは、討論会を最後まで見た。少し離れた場所で、立って見ていたある白人男性に声をかけると、呆然とした様子で呟いた。「トランプ氏がまったく規則を守らないから、なんだか恐ろしくなったよ」話している相手に、最初に口を挟んだのはバイデン氏だったが、結果的にはトランプ氏の方がルールを守らず、攻撃的だった印象が強い。どちらも相手をさえぎり、同時に言い合うことが多く、聞き取りにくい場面もあった。それを見ながら、さらにバーでも皆が口論し合い、カオスそしてまたカオスの夜だった。それでも終われば、怒鳴り合っていた客同士が「おやすみ」「一緒に見られて、楽しかった」「会えてよかったよ」と声を掛け合い、別れを告げていた。アパートに戻るとドアマンが、「どっちの勝ちだ?」と聞いた。今夜の討論会を意味していることは、明らかだった。「トランプはバイデンに口を挟んで、酷かったな」とドアマンが言った。私としては、今回の討論で勝者も敗者もなかった。お互いに子供の喧嘩のような非難の応酬だったと感じた。選挙戦でどちらが勝者となったとしても、敗者の主張を包含し、敗者にも耳を傾ける国であってほしい。このバーの客を見ていて、そう思った。2020年10月2日(米国時間)、トランプ氏がコロナ感染のため、緊急入院したとの速報が流れた。まずは、1日も早い回復を祈りたい。(随時掲載)++岡田光世プロフィールおかだ・みつよ 作家・エッセイスト東京都出身。青山学院大卒、ニューヨーク大学大学院修士号取得。日本の大手新聞社のアメリカ現地紙記者を経て、日本と米国を行き来しながら、米国市民の日常と哀歓を描いている。米中西部で暮らした経験もある。文春文庫のエッセイ「ニューヨークの魔法」シリーズは2007年の第1弾から累計40万部。2019年5月9日刊行のシリーズ第9弾「ニューヨークの魔法は終わらない」で、シリーズが完結。著書はほかに「アメリカの家族」「ニューヨーク日本人教育事情」(ともに岩波新書)などがある。
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