朝日新聞が始めたポッドキャスト番組をめぐって、その紹介記事が「プチ炎上」している。といっても、仲間内のコップの中の嵐だけど(そしてそれが一番の問題だ)。記事というのは、「新聞は『かわいくない』 活字メディアが音声始めた事情」(朝日新聞デジタル/見出しは初出時)。まずは読んでください。普通に面白いので。別にそんな変な記事ではない。メディアの危機感と、その打破への意気込みが、ストレートに語られている。だが、ちょっと燃えている。というか、身内の朝日新聞関係者が先頭に立って燃やしている。そういうところやぞ。「朝日新聞は...かわいくないですよね」反発を食っているのは、ポッドキャスト企画の担当者・神田大介氏(コンテンツ編成本部音声ディレクター)の、見出しにもなったこの辺の言葉だ。「じゃあ、我々がやってきた仕事はなんなのか。メディアはファクトチェックをして、政権の色々な部分を書いてきた。でもアメリカではそういう現象が起きている。なぜか。それは、トランプ氏がかわいいからだと思うんです。(中略)では、朝日新聞はどうでしょう? かわいくないですよね。ちっともかわいくない。(中略)ということは、もっと記者が感じの良い、愉快な所を見せて、読者との距離を詰めないと、ニュースを見て、聞いて、読んでもらえない。聞いて、読んでもらえれば、『ああ、なかなか面白いじゃん』と思う人もいるかもしれない。だから、ポッドキャストで、もっと記者の個性や人となりを見せていきたいという思いです」クイズです。どこが悪かったんでしょう?さて、どの辺が反発を食ったとあなたは思うだろうか。朝日新聞がとにかく大嫌い、あとドナルド・トランプ氏を「かわいい」と評することが許せない!という強硬派はひとまず置いておくと、(1)朝日離れの原因を「かわいくない」からという現状認識がずれている(2)読者との距離を近づけることを「かわいい」とか言っちゃうセンスがダメ。迎合的な上に、逆に「上から目線」だ(3)第一、新聞たるものそんな小手先のイメージ戦略じゃなく、ジャーナリズムの力で勝負せんかい!(4)そもそもジャーナリズムが「かわいい」なんぞ目指すな! ジャーナリズムとは戦いじゃ!!怒っている人たちの主張は、だいたいこの4点と、感情的反発が混じり合っている感じだ。いや、気持ちはわかる。だって記者たちからすれば、自分たちは日々、「権力」や「社会の不正義」と対峙し、あるいは現場の理不尽に心身をすり減らしながら、最前線で戦っているわけである。にもかかわらず当の身内が、自分たちの仕事を「かわいくない」とか言い出したのだ。そりゃあ、「かわいい」「感じの良い」なんて知るか! 自分たちは記者として戦うのだ!! とも言いたくなる。社内の怒りの声に押されたのか、記事の見出しもいつの間にか「記者の個性や思い伝える活字メディアが音声始めた事情」に。しかしこの見出し、クリックしたくなるかな。「ジャーナリズムがなくなると、世界平和っていうのはない」ところで、神田氏の話はどこまで叩かれるべきだろうか。そもそも問題の記事は、ポッドキャストの一部を抜粋したものだ。全体を聞くと、神田氏の危機感はよりはっきりする。「ほとんどの人にとって、朝日とか(どうでもいい)。新聞なんか読んでないんだから、誰も。そういう中で記者が、皆さんのほうに近づいていくというのが大事だろうなと」「(新聞社の経営やメディアの形が)どういうことになっても、結局我々がやりたいことっていうのは、情報をつまびらかにして、誰かが情報を独占する・捨てる・隠すみたいなことは、やらせないということが大事なんで。それさえできれば(伝える手段は)なんでもいいんですよ」「ジャーナリズムがなくなると、世界平和っていうのはないだろうなというのは一致してるんですよね。そこを残すために、できることはなんでもやらせてもらいますよ、というのは最近の記者、ベテランから若手まで一致してる」 新聞が読まれなくなった今、どれだけ今までのやり方でがんばっても、そもそも自分たちの「言葉が届いていない」のが現状。ジャーナリズムを守るため(それがイコール社会のため、と断言しちゃうところが、「かわいくない」のかもしれないが)には、あらゆる手を打たなければいけない――。「そこから新聞と読者との間の乖離がはじまる」新聞の声が、読者に「届かなくなる」ことへの危機感は、今に始まった話ではない。約40年前の本に、こんな一節がある。「新聞がだんまりをきめこんでいる間に、読者は、その他のマスメディアで真実に近いものを感じとっている。そこから新聞と読者との間の乖離がはじまる」(『続現代ジャーナリズム入門 夜郎自大』)こう書いたのは、故・扇谷正造氏(1913~1992)だ。朝日新聞で戦前から記者として働き、「週刊朝日」の名編集長として知られた。上記のフレーズは、芽生えつつあった「新聞不信」への、強い危機感を語る中での言葉だ。扇谷氏の時点では、「真実に近いもの」に読者が接するのは、テレビなどだっただろう。そして今であれば、ネットを通じて、より多くの「真実に近いもの」が氾濫している。それ自体は、読者にとって良いことだ。ただ、問題は「近い」というのがどれくらい近いか。「駅直結」とか言いつつ、「直結の停留所からバスで12分」だとちょっと困る。「コロナはイルミナティの陰謀! 存在しない!」みたいな「真実に近いもの」をみんなが信じ込むのは、本当に困る。「だんまりをきめこんで」はいられない。なんとしてでも読者との接点を作り続けなくては。そのためには、記者の「個性」だって武器にする――というポッドキャストチーム。読者に好かれよう、などというのは報道の堕落を招く。ジャーナリズムは嫌われてでも、あくまで「正しさ」を貫くべき――という反発派。さて、どっちが正解なのか。新聞に限らず、僕のようなネットニュースの人間にも、他人事ではない問題だ。でも、今の僕には答えがない。扇谷氏が引いている、仏文学者・評論家の故・桑原武夫氏の言葉で記事を締めくくっておく。「ジャーナリストは、よき意味における日和見主義者である」(以下は余談です)【おまけ(1)】神田氏の語り口に、「上から目線」を感じて、それがそもそも嫌だという人も多い。「色々あるんですが、一つ言えるのは、けっこう学歴が良くって、いい給料をもらっているヤツが、正しいことを言うのって、ムカつくんですよね」という自虐ジョークは、確かに笑っていいのか悩む。筆者も人のことを言えないけど、メディアの人のギャグって、いちいち妙に「露悪的」なのである。こういうところは「かわいくない」。【おまけ(2)】ちなみに上に挙げた本の中で、大先輩の扇谷氏は、新聞記者・ジャーナリストの「かわいくない」態度を、厳しく叱っている。「"強もて"があたり前と思っているところが、新聞記者のあわれなところである」「一流企業のサラリーマンは、概してマナーがいい。よっぽどのバカでない限り九割九分まで好感が持てる。そこへいくとマスコミ人――とくにジャーナリストの七割はダメである」「何で、そんなに肩をいからせ、よくいえば気負った、悪くいえば、権高な恰好で、物いいしなくっちゃいけないのか? なぜもっと気楽にできないのか?」「ジャーナリストにおける知る権利も何かジャーナリストの特権と思われ、世間も半ば、これを公認している気味であるが、とんでもない。くりかえしていうが、『新聞記者には、何ら市民的特権はない』(劇作家飯沢匡氏)のである」扇谷氏は、こうした「おごり」もまた、新聞不信の一因をなしているとみたようだ。(J-CASTニュース編集長 竹内 翔)【J-CASTネットメディア時評】いまインターネットでは、なにが起きているのか。直近の出来事や、話題になった記事を、ネットメディアの「中の人」が論評します。竹内 翔 J-CASTニュース編集長1986年生まれ。広島県出身。2011年、ジェイ・キャスト入社。以来、ネットニュースを4000本くらい書いてきました。2018年10月から現職。(Twitter:@netnewsman)
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