2024年 4月 26日 (金)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(30)歴史家・ 磯田道史さんと考える「過去の知恵」

上杉鷹山の「知恵」に学ぶ

   そこから磯田さんの話は、米沢藩の名君・上杉鷹山の感染症対策に移っていった。

   取材した翌日に発売の「週刊文春」が、「コロナ時代の生き方」という特集を組み、磯田さんは「上杉鷹山に学ぶ非常時のリーダーの心得」という文章を寄せていた。

   「感染症の日本史」にも詳しく書かれているが、1795年に米沢藩を襲った天然痘(疱瘡)に対し、藩主の鷹山は矢継ぎ早に手を打った。いずれも他藩には見られない独自の対策だ。

   当時は感染症が流行すると、どの藩でも藩主に感染させないことを最優先にしていた。家臣は藩主の私生活の場である「御内証」や政務の場である「表向き」に出仕することを控えた。これが当時は「遠慮」と呼ばれた。今でいう「自粛」を指す。

   だが鷹山は「御内証、表向共に遠慮には及ばない」と命令した。つまり出仕してもかまわない、という指示だ。日本の疫病と防疫を記録した史書は、「疱瘡を伝染病と考えていなかったろう」としているが、磯田さんは違う、と指摘する。米沢藩には家老の直江兼続が集めた最先端の医書の蔵書があり、鷹山は蘭学塾に藩費で医師を留学させるなど、西洋医学の吸収にも熱心だったからだ。

   ではなぜ鷹山は「自粛無用」と指示したのか。磯田さんは非常事態で役所が機能不全を起こせば、困るのは領民と考え、「自分にうつしても構わないから、役所を動かせ」と指示したのだろうという。

   磯田さんがそう考えるのは、鷹山の感染症対策が常に「領民本位」「患者本位」で貫かれているからだ。鷹山は生活に困窮した人が名乗り出るよう申し渡し、手当を支給した。

   さらに家族全員が感染して看護者がいなくなる事態を想定し、常に見回って隣近所が助け合うように心砕いた。

   鷹山はまた、江戸から天然痘の専門医を呼び寄せ,対策チームの指揮を執らせた。患者には「薬礼に及ばず」と言い渡し、医療を無償提供した。

   鷹山は、城下町だけでなく、遠方にも目配りを怠らず、山間部などに「薬剤方」や「禁忌物」などに関する心得書を配布させた。

   こうした対策にもかかわらず、上杉鷹山の米沢藩領では感染者が8千人を超え、うち約25%が亡くなった。鷹山は翌年の正月の祝賀を取りやめ、被害の規模を詳細に記録させた。

   磯田さんはこの時に鷹山が残した「御国民療治」という言葉に注目する。国民、つまり藩の領民は、必要な医療を受けねばならない、という強い意志だ。

「鷹山は子どもの頃から、春秋左氏伝に言う『国之興也 視民如傷』、つまり、けが人を見るように民を見る、という教えを受けて育った。大けがをした人のように、ケアが必要な人を助ける。医者の考えに近い施政の哲学です」

   藩主になる前に、鷹山の教育掛りになったのは儒者の細井平洲だった。この人の逸話が面白い。

   会津120万石を拝領していた藩主の上杉家は、景勝の時代に関ヶ原で家康軍に破れ、米沢30万石に減移封になった。さらに男系断絶の危機にさらされ、所領はさらに半減された。だが家格の高い上杉家は会津以来の家臣団をそのまま維持し、かつての家格に応じた出費を続け、財政は破綻の危機に瀕した。この藩主を育てなければ、もうあとはない。日向高鍋藩秋月家から養子として迎えた鷹山をどう育てるか。それが、藩首脳の焦眉の急の課題となった。

   「家臣が江戸に出て養育掛りを探していると、橋のたもとで辻講釈をしている儒者がいました。話を聞いていた庶民が感動のあまり泣いて、貧しいのに投げ銭をしている。尾行したら貧しい長屋暮らし。人の気持ちに訴え、心を動かすような人物でなければ、藩は変えられない。そう思って、その細井平洲を米沢に招いたと言われています」

   平洲は14歳から17歳にかけて鷹山に教えたが、その基本が「国民を見る時にはけが人に接するように」という施政訓だった。

「あなたがしっかりしないと国民は死ぬ。命がけにならないと改革はできない、という教えだったと思う。のちに平洲は鷹山に書簡で、『勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや』と激励もした。諸藩が平時の前例踏襲を墨守したの対し、疫病の非常時に鷹山がリーダーシップを発揮できたのは、その教えが大きかったでしょう」

   磯田さんは、鷹山の天然痘対策から、非常時に指導者に必要な教訓を引き出し、次の9点にまとめた。

教訓1 一番どこが困って悲惨か、洗い出しをやり、救いこぼしのない対策をとる
教訓2 情報提供が大切。具体的にマニュアル化した指示を出す
教訓3 最良の方法手段を取り寄せ、現場の支援にこそ予算をつける
教訓4 専門家の意見を尊重し採用する
教訓5 非常時には常時と違う人物・事業が必要。変化をおそれない
教訓6 情報・予測に基づき計画し、事前に行動する
教訓7 リーダーは前提をチェックし、危うい前提の計画を進めないようにする
教訓8 自分や自分に近い人間の都合を優先しない
教訓9 仁愛を本にして分別し決断する

   磯田さんは、感染流行中には為政者や専門家の批判・非難はしないことを自らのポリシーにしている。感染防止の施策に、いたずらな混乱をもたらしてはいけない、という配慮からだ。

   だがこの9つの「教訓」を読めば、今の政治家のリーダーシップが、いかに鷹山と比べ、劣っているかを思わざるをえない。

   この「教訓」をよく見ると、「教訓1」~「教訓4」は疫病に当たって「ケア」や感染防止の鉄則を説く言葉だが、「教訓5」~「教訓8」は、戦国武将に求められたような機敏な情報収集・判断、将来を予測して果敢に先手を打つ決断力の要諦を並べている。

   徳川幕府の天下泰平の世で、多くの藩は、疫病に即応した対策を取れなかっただけでなく、戦国時代に培った判断・行動力も衰えていたのではなかったか。

   そして最後の教訓、「仁愛を本にして」という基本精神こそ、今回のコロナ禍対策に決定的にかけているリーダーの資質だと思わざるをえない。磯田さんが引き出した鷹山の「教訓」を、私はそう重く受け止めた。

   かつて私は、琉球王国史を研究する高良倉吉氏にインタビューをしたことがあった。高良氏は、「沖縄で歴史家は、植木屋さんや八百屋さんと同じく、欠かせない職業なんです」と話した。琉球処分、沖縄戦、米軍による占領、基地問題と、沖縄ではいまだに歴史は片付かず、決着した過去にはなっていない。だからどのような問題でも、歴史を専門に研究する職業が欠かせない、のだと。

   今回磯田さんにお話をうかがって、感染症にも歴史家は欠かせない、と実感した。

   感染症の「変わらなさ」は、おそらく、「変わる科学技術」や「変わる医療」をはねつけるほど、しぶとい。

   今回、英国のコロナ対策に助言するチームに行動科学や心理学の専門家が加わっているように、感染症の拡大防止には、その施策を人々がどう受けとめ、どう行動を変容させるかという洞察が必要だろう。指導者や専門家に対する人々の信頼度や、メッセージの伝え方も、ウイルスに対する知識と同じように重要だ。

   そうしたことは、これさえあれば、というマニュアルのような形では残されていない。

   だが、史料には。そうした問題について再認識を迫る原石がたくさん残されている。かつての感染症対策や防疫の効果は実測できないし、歴史には即効性はない。また磯田さんは「歴史にも恣意的な利用は多い。歴史家をあんまり買いかぶってもらっても困る」ともいう。

   だが、その「知恵」や「教訓」を汲みだすには、歴史家の言葉を聞くに如くはない。磯田さんに、そう教えていただいたように思う。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。

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