2021年 8月 1日 (日)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(34)科学ジャーナリスト・尾関章さんと考える「科学報道」の落とし穴

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「厚生省」から「厚労省」へ

   この問題には、メディアの取材体制そのものが深くかかわっている。

   私が東京本社の学芸部から社会部に移った1980年代の後半、社会部の「キャリア・パス」について先輩から教えられたことがある。社会部員になると、「方面」と呼ばれる警視庁の署回りに配置され、そこから警視庁、記者クラブか、検察・裁判所を担当する司法記者、都庁記者クラブに配属される。その後は「遊軍」になることが多いが、腕扱きの特ダネ記者は、文部省、厚生省、防衛庁担当に抜擢される。そこには政治部記者もいるが、多くは一人だけの各社精鋭の社会部記者が特ダネを競う激戦地だった。何しろ、全く医療や衛生の知識がなくても、朝夕刊の一面トップ記事をどれだけ出すかで、しのぎを削っていたのである。私自身、先輩から直接、「月に10数本は1面トップ記事を書いた」と聞かされたことがある。

   いわば厚生行政には素人の記者に、なぜそんな手品のようなことができるのか、当時の私にはわからなかった。

   だが、種を明かせば、簡単だ。先輩は「特ダネ記者」であり、特ダネ記者は分野を選ばない。取材源と人間関係を築き、勘を働かせて適時に働きかければ、他社に先駆けて明日発表のニュースを、今日入手することができる。つまり、事件・事故取材と何ら変わりない。

   もちろん、一つの役所を何年も担当すれば、その組織の所掌業務に精通し、問題点や疑問点もわかる。だが、各社が特ダネの草刈り場と位置付け、比較的短期に担当が入れ替われば、他社を抜く記者の辣腕度を評定する場になりかねない。

   かつて外務省は、政治部の専管だった。特派員経験者が属する外報部(国際報道部)の記者は外務省を担当せず、内政で経験を積んだ政治記者の独擅場だった。米国の国務省担当の大半が特派員経験者であるのとは対照的で、私もよく外国の記者にその理由を聞かれ、答えに窮した。21世紀になって、さすがに政治部から特派員になったり、相互の人事交流が活発化したりで、その慣行は崩れた。

   この二つの事例で私が言いたいのは、かつての新聞社では、取材源の省庁に食い込んで、他社を抜くことを最優先にし、専門知識や経験をもとに、その組織や政策の是非や良しあしをチェックすることが疎かになっていたのではないか、ということだ。

   私のこの危惧は、「公の視点で医療行政や厚生行政を批判・検証する姿勢が希薄だった」という尾関さんの自省に、重なる点が多い。

   すでに述べたように、医療ブームが高まるにつれ、21世紀には新聞社の科学医療報道の取材力は増強された。04年時点の東京本社科学医療部員数は、その30年前の東京本社科学部と比べてほぼ倍増していた。取材記者全般が縮小する中で、この増え方は突出している。

   その前の2001年、中央省庁の改編で、厚生省は労働省と一つになり、文字通り「揺りかごから墓場まで」、暮らしと働きを担う予算規模最大の巨大官庁になった。

   06年にロンドンから帰国した当時、私は厚労省クラブを担当する記者が14人いると聞き、絶句した記憶がある。私が80年代後半に司法記者クラブにいた当時、担当記者は5人に過ぎなかった。事情を聴くと、あまりに所掌事務が多く、重要な会合や部会で暮らしに直結する政策が決まるので、発表や会合取材をこなすだけでも、それぐらいの人手が必要なのだという。

   尾関さんによると、その厚労省ですら、朝日新聞社が科学医療記者を張り付けるようになったのは、2000年代の半ばになってからだったという。尾関さんはこう話す。

「旧厚生省の守備範囲は医療、薬事から福祉まで幅広かったので、腕っこきの社会部記者が八面六臂の活躍をしていた印象がある。その裏返しとして、科学記者は公衆衛生政策に深くは踏み込まず、PCRのような先端技術を感染症対策の文脈でとらえる科学ジャーナリズムの視点を紙面に反映できなくなってしまっていた。悔いが残る」

   科学医療部は「個」に向き合う最先端医療や患者に寄り添う報道に注力し、厚労省担当記者は役所の動向や発表を追うのに手がいっぱいだった。

   結果として、専門家や臨床医らを丹念に取材する記者が、厚労行政を検証し、批判的にとらえ直す態勢にはなっていなかった、ということではないだろうか。

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