2021年 7月 28日 (水)

立花隆、知の冒険遊びも徹底した インド音楽LP作りで見た取材手法との共通点

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   2021年4月30日に亡くなった作家の立花隆さんは、その好奇心の広さに驚かされるが、趣味の世界でも細部に拘った。実例が「シェ・タチバナ」(Chez TACHIBANAはフランス語で「タチバナの家」)レーベルの手作りLPレコード制作だった。取材の徹底ぶりの原点を見たと思った。

   そのレコード「Raga Gaud Malhar Raga Yaman」は、インドのクラシックボーカル、ラーガ・ガウドゥ・マハールとラーガ・ヤマンの2曲を収めている。1984年9月に立花さんの自宅で収録された。限定版少部数で発売されたが、今はネットで高額で取引されている。レーベルの名前はその後、立花さんのホームページのタイトルになっている。

  •  立花さんが作ったレコード。ジャケットは同じものがない特製だった。
    立花さんが作ったレコード。ジャケットは同じものがない特製だった。
  • その後の田中疑惑を追った田中新金脈シリーズの本。
    その後の田中疑惑を追った田中新金脈シリーズの本。
  • レコードとジャケット。
    レコードとジャケット。
  •  立花さんが作ったレコード。ジャケットは同じものがない特製だった。
  • その後の田中疑惑を追った田中新金脈シリーズの本。
  • レコードとジャケット。

「じゃ、レコードをつくろう」

   自宅ライブを催すきっかけを立花さんはこう書いている。

「私はそのころ、『週刊朝日』で『田中新金脈追及』という連載に取り組んでいた。その担当デスクが前朝日新聞のインド特派員で、インド時代の友人でクラシックボーカルを歌える友人が彼の家に滞在していた...」
「じゃ、うちで彼のコンサートをやろう」

   提案を受けたのが編集部で担当副編集長をしていた私だった。

   立花さんの自宅はそのころ2部屋をぶち抜いて14畳の応接間を作ったばかり。立花さんは次々と友人を誘い、自宅ライブは実現に向かう。そして、「じゃ、レコードをつくろう」となった。

   誘った中に音楽家の小室等さんがいた。当時、FM東京で番組を持っており、音響技術者を連れて来ることになる。聴衆も面白くなければと、友人を誘った。舞台美術家の妹尾河童さん、佐賀町エキジビット・スペースの小池一子さん、映画評論家の小野耕世さんらにカメラマン、編集者らが加わる。脇で太鼓のタブラを叩いてくれたのは民族音楽演奏家の若林忠宏さん。立花さんはコンサートのホストであり、レコードの制作者、ジャケットのアートディレクター、解説書の編集長だった。

   ビートルズがインド音楽のサウンドを導入して以来、それにひかれてインド音楽に関心を持つ人は多いが、そのサウンドを成立させている巨大な音楽世界がその背後に存在していることには気づいていない、と立花さんは考えていた。田中金脈を追及するように、インド音楽も勉強する。これも徹底した。解説書にはじつに分かりやすくインド音楽のコンセプト、構造が説明されている。

   ライブ当日、夕方から14畳の部屋に30数人が詰めた。KC・パンデさんの演奏が終わり、簡単な食事を楽しむ。立花さんが作るコショウの効いた野菜スープが出る。

   レコードのプレスも自分で見ないと気が済まない。ジャケット作りがまた、立花流。版画家の中島通善さんの作品を特別の紙に刷って表に張るのだが、すべて異なる作品にした。限定373枚、同じものがない。版画を張る手作業に仲間が立花家に集まった。販売は六本木のレコードショップ「WAVE」で、立花さんが店頭に立った。

   何から何まで手を抜かない。採算度外視。限定版は完売し、第二版が880部制作された。 それから1年、1985年12月に、こんどはCDをつくろうと立花家14畳の部屋で吉原すみれさんのライブ演奏が行われた。

   吉原さんは国際的なパーカッション演奏家で、妹尾河童さんが紹介した。あのインドライブの後、立花さんと河童さんは交流を密にしていた。河童さんは独特な細密イラストでも知られ、細部にこだわるところは立花さんと同じだった。

   吉原ライブには新しく評論家の澤地久枝さん、俳優の冨士真奈美さんらが加わった。立花編集長の解説書は河童さんのイラストが多く掲載された贅沢な出来だった。CD「とぎれた闇」はシェ・タチバナの第二弾である。立花さんはCDのプレス工場を訪ね、クリーンルームを体験した。

   音楽のメディア制作はこの2枚だが、立花さんの音楽への興味は広がっていた。仏教の声明、アフリカの民族音楽など、面白いものを見つけては聴かせてくれた。

   週刊朝日の田中新金脈シリーズは1982年と84年の2回にわたって連載された。連載中は毎日のように夜は取材報告と戦略打ち合わせだった。納得するまでやり遂げる。ある晩、午前3時に終わって帰って寝ると4時に電話がかかってきた。「さっきの、あのことだけど...」と思いついたことを話す。立花さんは別れた後もずっと考えていたのだ。

   この過酷な取材の合間にLPとCDは作られた。連載は「田中角栄いまだ釈明せず」(1982年)「田中角栄新金脈」(1985年)の書籍となった。「釈明せず」の前書きで立花さんはこう書いている。

「どの1章をとっても、書き込めばそれだけで本1冊が書けそうなだけの材料を集めている。...サラリと書いてある1行1行が、実は練りに練られた1行1行であるとだけ言っておこう」

   細部に真実が宿る。それを極める。金脈追及もレコード作りも、同じ拘りで向き合う人だった。

(蜷川真夫)

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