2024年 4月 20日 (土)

「励まし」と「救済」の文学 ノーベル賞の大江健三郎さんは何を残したか

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   作家の大江健三郎さんが亡くなった。88歳だった。川端康成さんに続いて、日本人としてノーベル文学賞を受賞した大江さんは、大学在学中に芥川賞を受賞。その後も次々と問題作を発表し、同時代の日本人に大きな影響を与え続けた。反核、護憲など、単なる作家にとどまらない多彩な活動でも知られ、戦後にデビューした日本文学者の中では、別格の存在だった。

  • 大江健三郎さん(写真:AP/アフロ)
    大江健三郎さん(写真:AP/アフロ)
  • 大江健三郎さん(写真:AP/アフロ)

20代で問題作を連発

   若くして芥川賞を受賞する人は少なくない。しかし、受賞後、立て続けに新作を発表し続けた作家はほとんどいない。大江さんは、その稀有な一人だった。

   大江さんが芥川賞を受賞したのは58年、23歳の時だった。この年は、「文学界」1月号に受賞作となる『飼育』、すぐに同年の「新潮」2月号に『人間の羊』、「文藝春秋」2月号に『運搬』、「文学界」3月号には『鳩』、「群像」6月号には初の長編『芽むしり仔撃ち』、「文学界」6月号には『見るまえに跳べ』など、1年に10本近いハイペースで作品を発表し続けた。

   翌59年は書きおろしの『われらの時代』、60年は『後退青年研究所』や『遅れてきた青年』、61年には『セヴンティーン』。いずれも20代半ばの作品群だ。

   64年には『個人的な体験」、65年は『厳粛な綱渡り』。66年には全6巻の「全作品集」が早くも刊行された。そして67年には代表作『万延元年のフットボール』を発表している。このとき、まだ32歳だった。すでに10歳年長の三島由紀夫、35歳年長の川端康成らの先輩作家と肩を並べる大家となっていた。

長男が生まれてテーマが変わった

   才能が爆発するかの如く話題作を連発していた大江さんに、大きな転機が訪れたのは、1963年。28歳の時だった。生まれたばかりの長男、光さんが知的障害を持っていることがわかった。

   のちに大江さんは語っている。

「僕はかつてない揺さぶられ方を経験することになった。いくらかの教養や人間関係も、それまでに書いた小説も、なにひとつ支えにならないと感じた」(89年6月、朝日新聞)

   しかし、その苦しい思いを、大江さんはすぐさま翌年、『個人的な体験』として作品にまとめ上げた。 雑誌AERAは、大江さんがノーベル賞を受賞した後の1994年12月19日号で「原点は励ましの文学」という記事を掲載している。

   その中で、大江さんの過去の作品のほとんどを読破したというジャーナリストの小島郁夫さんは指摘している。

「子どもが生まれてから、作品のテーマは、前向きなものに変わった。初期のころは、政治や革命、暴力がよく題材とされていたが、それ以後は、創造力や希望についても語り始めている」

   作品の中で「励ます」という言葉がしばしば使われるようになったという。

   ノーベル文学賞の受賞理由も、「想像の世界の中で個人的なものを掘り下げることで、人間に共通するものを描き出すことに成功した。これは、脳に障害のある子の父となってからの作品にとくに言える」とされている。

人類の悲惨な状況に心を痛める

   大江さんは反核や平和、沖縄、原発、環境問題などにも心を寄せ、デモや集会に参加するなど一文学者のレベルにとどまらない関わりを持った。こうしたアクティブな行動は、「個人的な体験」を、より広く深く掘り下げたものだったと理解できる。

   日経新聞は2023年3月14日、評伝記事の中で「大江文学の基調をなすのは人類の悲惨な状況とそこからの救済」と書いている。「表面的には私小説の形をとりながら、徹底した自己批評によって、作品世界を修正・進化させていった」。

   他者を励ますことは、自分が励まされること。世界を救済する行動に参画することは、自分も救済されるということ。

   自身以外の人が直面している困難な問題についても、積極的に発言し、行動することが、大江文学を「私小説」から「世界文学」に引き上げるエネルギーとなっていた。

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