テレビでオリンピック競技を見ながら夕飯の支度にとりかかっていた時、解説者が発したひと言が耳に残りました。「素晴らしいですね。審査員の『印象』も、とても良いと思います」100メートル走みたいに、一番早くゴールにたどり着いた人が勝ち!という競技ならわかりやすいのですが、採点競技だとそうはいきません。「審査員の『印象』まで気にしなきゃいけないなんて、選手は大変だなぁ」と独りごちた時、管理職として経験した衝撃的な記憶がよみがえってきました。なんとなく「印象」で決まってしまう評価制度からの脱却どこにでもいる?印象だけはよい「印象番長」年に一度行われる社員の評価。その評価制度が刷新されるというので、説明会に参加すると、人事部門の担当者が目を輝かせながら話し始めました。「わが社では、新たにコンピテンシー評価を導入します。優秀人材の行動特性をパターン化したものを基準として、統一したルールで社員の行動を細かく評価します。管理職のみなさん、ルールに沿って公正に評価を行ってください」日ごろの働きぶりなど、なんとなくの『印象』で評価が決まってしまう鉛筆ナメナメからの脱却。ひとしきり説明を聞き、なんて画期的な評価制度なんだろう!と感動さえ覚えました。いざ、新制度に沿って自部門の社員たちを評価してみると、こりゃすばらしい!何ができていて、何ができていないか、行動特性が細かく何パターンも設定されているからわかりやすい。点数のつけ方も、きちんとルールが統一されています。人事のみなさん、ナイスです。評価を終え、最終決定権のある上司への報告を完了すると、人事から連絡が入りました。「では、部門ごとにつけた評価を『調整』する会議を行ってください」決められたルールどおりに評価したのに、今さら何を調整するというのか?と訝しい気持ちを抑えて管理職たちが集まる会議に出席すると、上司は開口一番こう切り出しました。「みんな、評価が高すぎるよ。これだと差がつかないから『調整』しよう」すると、上から高い順に「ランク」が書かれたホワイトボードが登場し、各管理職がつけた評価に沿って、社員一人ひとりの名前を書いた付箋が貼られていきました。上司は付箋を眺めながら、「うーん、今の評価だとAくんとBさんは同じランクだけどさぁ、『印象』としてはやっぱBさんのほうが上だよねぇ?」そうつぶやくと、Aくんの付箋をはがして一つ下のランクに貼り直しました。「うーん、Aくんを一つ下げたけど、するとAくんとCくんが同じランクになるのか。でもさ、Cくんのほうが上の『印象』だよねぇ」そして、Aくんのランクをもう一つ下げました。「こんなもんか。評価はこれで良いね。じゃ、次」上司の言葉に、ウンウンと頷く他の管理職たち......。おいおい、ちょっと待った。なんですかそれ?結局、『印象』で決めるんですか。それじゃ今までと変わらないじゃないですか!と不満の声を上げてみたものの、やっぱり『印象』は無視できないし、ランクに差をつけなきゃいけないからと、調整会議なるものは淡々と進んでいきました。上司の「鶴のひと声」で結局は鉛筆ナメナメの評価に......上司の「鶴のひと声」で結局は鉛筆ナメナメの評価に......納得いかない私を黙殺したまま、ヘンな緊張感の中で淀んでいく空気。そんな空気も新制度のルールも意に介さず、上司の「印象」を軸に次々と決まっていく社員たちの評価。会議が終わると、ホワイトボードの一番上のランクには上司へのアピールがうまいだけの『印象番長』と思しき名前ばかりがやたらと目につきました。なんじゃこりゃ?「評価制度を刷新する度に、決定権を持つ上司が『印象』で調整して、結局は鉛筆ナメナメに戻る、なんてことを繰り返してきた会社、たくさんありそうだなぁ」苦い記憶を思い起こしながらブツブツ言っていると、中学校に通う次男坊が帰ってきました。私:「なあ、テストの点数を無視してさ、先生が『印象』だけで成績を決めてたらどう思う?」次男:「そりゃ、困るね」私:「だよな。せっかく勉強頑張っても『印象』だけで決められちゃ、納得いかないもんな」次男:「まあ、それもあるけどね」私:「他に何が困るの?」次男:「先生が『印象』だけで決めた成績だとさ、自分の実力がわからないよね」そのへんのわからずや上司よりも、中学生のほうがよっぽど問題の本質を見抜いているじゃありませんか。世の上司のみなさま、淀んだ空気ばかり吸ってると、子どものころに備わっていたはずのピュアな感性が失われていくみたいですよ。(川上敬太郎)
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