2024年 4月 26日 (金)

戦争の下でもたくましく優しく生きた「すずさん」たち・・・「この世界の片隅に」であらためて考える庶民と暮し

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空襲の業火に包まれる町・・・「不謹慎だが、きれいに見えた風景」

   次のエピソードは愛媛・松山市の空襲体験の話。「松山が燃えたのは、終戦の20日前です。夜中に空襲警報のサイレン。火を付けた蝋燭(ろうそく)の束のような焼夷弾が5つも6つも落ちてきて、一気に家が燃えていきました。私は、離れに寝かしたお祖父さんを助けようと庭に出ました。駆け寄ると、部屋の中は煙がまいて、お祖父さんの姿がおぼろげにしか見えません。お祖父さんは、自分で体を動かすことがままならないからどうすればいいのか。その時、お祖父さんが煙りの中から手を振るのが見えました。『みっちゃん、みっちゃん逃げておくれ』そう言いました。諦めきれない私がもう一度『一緒に逃げましょう』と言うと、お祖父さんは『みっちゃん、早う逃げておくれ』と、さらに手を振りました。『お祖父さん、すいません』と叫んで、涙を流しながら逃げました。

   通りへ出ようとしたけれど、火が屏風を立て込んだように燃え盛っている。ここを抜けなければ死ぬ。空を見上げると、米兵が機銃掃射をしてくるのがはっきり見える。松山城のお堀の水に飛び込んで息を詰めました。機銃の弾が水に入って、ビシビシいう音が聞こえる。いつの間にか、飛行機が来るのが止んで、燃えている街が見えました。火の粉がキラキラキラキラ飛んで、火が街の形のままに燃え盛る。堀端に腰かけ、呆然と『ああ、美しい』って思いました。不謹慎だと思うけれど、あの風景は私が今まで見た中で一番きれいな風景です」

   このエピソードを投稿したのは、今も松山市で暮らす宮内道子さん(93)である。「怖いも悲しいも追いつかんのですよ。みな燃えてしまって」と当時を振り返った。

   米爆撃機による日本本土への本格空襲が始まったのは、米軍がマリアナ諸島に上陸して4か月後の1944年11月末だった。終戦の8月15日までの10か月間続き、日本のほぼすべての都市が焼かれた。

   武田真一キャスター「その中で、全国のすずさんたちが、一日一日を生きていくことの尊さを、今の私たちに教えてくれている気がします」

   それと同時に、すでに軍事的敗北は分かっていながら、敗北を認めず、すずさんら庶民を猛烈な空爆にさらし続けた日本人の失敗の本質とは何か。きちっと向き合う必要があることも教えてくれる。

*NHKクローズアップ現代+(2018年8月1日放送「あちこちのすずさん~庶民がつづった戦争の記録~」

文   モンブラン
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