2024年 4月 23日 (火)

深田恭子と新垣結衣「他人に言えなかった悩み」適応障害に追い込まれた激やせ、星野源に救われたコンプレックス――ほか5編

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   深田恭子(38)と新垣結衣(32)。傍から見れば人気も私生活も絶好調に見える2人だが、他人には分からない悩みがあるようだ。深田の所属する「ホリプロ」が5月26日(2021年)、彼女が「適応障害」と診断されたため、芸能活動を休止すると発表した。7月期から連続ドラマが始まる直前の降板だから、よほどのことではないかと心配になる。

   昨年春、新型コロナ感染が広がり、1回目の緊急事態宣言が出されたあたりから、体調を崩しがちになったという。不動産系企業会長との交際が報じられ、結婚かと騒がれたが、その後は動きがなく、最近では、深田の"激ヤセ"がメディアで話題になっていた。適応障害という心の病は、短期間で回復というのはなかなか難しいようだから、焦らず療養してもらいたいものである。

   新垣は星野源との電撃結婚で時の人になったが、週刊文春によると、人気女優となるまでには、人知れぬ苦悩と葛藤があったという。沖縄で3人姉妹の末っ子に生まれた新垣は、SPEEDに憧れて芸能養成所「沖縄アクターズスクール」を受けるが、3回とも不合格。そこで、女子小中学生向けの『ニコラ』のモデルに応募するとグランプリに輝き、16歳で上京して女優の仕事も始め、2005年には『ドラゴン桜』に出演、グリコの「ポッキー」のCMでブレイクする。

   2011年に関ジャニ∞の錦戸亮と共演し、2年後には2人の熱愛が報じられた。「半同棲状態」(週刊文春)だったが、インドア派を自称する彼女は、夜遊びが激しく帰宅しない錦戸のことで悩み、周囲も別れるよう説得し、結局、破局したという。彼女は仕事の忙しさもあり、精神的に不安定になっていった。「食事が摂れなくなり、沖縄から母が上京。食事を作ってくれたことで回復した」(新垣の知人)

   所属タレントが次々独立していくことにも不安を覚え、事務所の「レプロ」側とも円滑なコミュニケーションが取れなくなっていった。日刊スポーツ(2016年10月23日付)でこう吐露している。「実は私、そんなに明るくないんです。若干暗いくらい」「普段から明るく振る舞うように頑張って努力はしているんですけど」

   そんな新垣の心の扉をノックし続けたのが星野源だった。2人が共演したのは2016年から始まった『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)だが、もともと星野は新垣の大ファンで、撮影中にも「どうしてそんなにかわいいの」とモーションをかけ続けていたという。

   星野って、高校卒業後、東京・中野にある沖縄居酒屋「あしびなー」でアルバイトをしていたそうだ。知ってる。昭和新道沿いにある店だな。店主がボソボソしゃべるし、陰気だし、もやしみたいな子だったと語っている。目立たない俳優と孤独を抱えた女優が、今年1月に放映された『逃げ恥 スペシャル』をきっかけに交際を始めたそうだ。

   新垣は事務所を離れ、年内にファンクラブを解散して、芸能界を引退するのではないかといわれているようだ。運転免許もなければ、高いものには興味がないという男と、家にいるのが大好きな女か。最高のカップルの誕生だと思う。

『田村正和』3年前に決めてた俳優引退...老いた姿見せたくなかった?正真正銘の二枚目スターの最後は妻と散歩の毎日

   掛け値なしに「最後のスター」の死である。田村正和(享年77)は、大映画スターであった"バンツマ"こと阪東妻三郎の三男として、1000坪以上ある京都・嵯峨野の家で生まれた。父が51歳で急逝すると、東京の成城へと居を移す。成城学園高校2年の時、松竹大船と専属契約を結ぶが、声がまったく通らないと、デビュー当初の評判は散々だった。

   親の七光りが通じなかった田村は、25歳のとき、3歳年上で銀座の老舗テーラーの令嬢と結婚する。翌年、長女を授かり、田村は映画からテレビへと軸足を移す決断をする。映画では通じなかったボソボソしたしゃべりが、テレビでは個性として生きたのである。

   人気を確固たるものにしたのは、1972年の『眠狂四郎』だった。週刊文春によれば、原作者の柴田錬三郎が、やはり原作だったドラマ『岡っ引きどぶ』に着流しで出た田村を見て、「この青年に眠狂四郎なんかいいんじゃないか」といったことがきっかけだったという。ニヒルな二枚目は田村の当たり役になったが、80年代に入ると、一転して、コミカルなドラマもやるようになる。そして1994年、日本版『刑事コロンボ』といわれた『警部補・古畑任三郎』という役に出会い、国民的スターになるのである。

   田村には数々の"神話"がある。「台本を頭に叩きこんでNGは出さない」「舞台挨拶は本物の俳優がやることではない」「ごく親しい人以外には食事姿を見せない」「裸でのラブシーンはNG。ベッドシーンもTシャツを着たまま」。田村の考える最高のラブシーンは、「『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルとビビアン・リーのキス」だといっていた。「50メートル先のレストランへ行くにもリムジンで」「撮影中トイレに行きたくなると1時間かけて宿泊しているホテルへ戻った」「スタッフは『殿』と呼んでいた」

   週刊新潮では、「浮気を許せない妻は失格だ」「子どもとも遊ばない」といっていたというが、実は家庭的で、娘を可愛がり、学校の行事にもよく行っていたという。夏は野球帽にサングラス、冬はコートの襟を立てて。

   3年前、柴田の長女に田村からの手紙が届いた。そこには「引退します」と書かれてあった。他人には私生活を見せなかった田村も、昨年以降、散歩する際、妻と一緒のことが増えたという。遺言だったのだろう。田村が亡くなってから1か月後に公表された。

元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長。現在は『インターネット報道協会』代表理事。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

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