2024年 4月 23日 (火)

「どうする家康」マメ知識
地味?実は興味深い「六角氏」 一族の歴史と信長時代に起きたコト
<歴史好きYouTuberの視点>

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   NHK大河ドラマ「どうする家康」。次回5月14日(2023年)放送回は「第18回 真・三方ヶ原合戦」です。登録者数15万人を超える人気歴史解説動画「戦国BANASHI」を運営するミスター武士道が、今週原稿で最も熱く語りたい「マメ知識」は?(ネタバレあり)

  • 歴史解説YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」提供
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当主の座が次々と移ったワケ

   いや?乱世乱世。どうも歴史好きYouTuberのミスター武士道です。

   『どうする家康』が何倍も面白くなる歴史知識をご紹介します。

   さて、歴代の大河でもなんとなくスルーされてしまっている六角氏を今回は解説していきたいと思います。

   六角氏はもともと、近江国の佐々木荘で繁栄していた宇多源氏が始まりでした。

   平治の乱で平氏に近江国を追われた、その佐々木氏の秀義が、その後に、頼朝の下に馳せ参じたのは去年の『鎌倉殿の13人』でも描かれましたね。

   その秀義のひ孫の1人であった泰綱が六角氏の祖になります。 また、この泰綱の弟の氏信は京極の祖にあたります。

   南北朝時代になると、六角氏頼が当主となり足利尊氏側の北朝に味方したことで、北畠顕家と戦うことになり、その戦いで観音寺城を顕家に落城されてしまいました。

   戦況が良い方へ向かいまた観音寺城に戻ることは出来ましたが、観応の擾乱が起きたことでまたもや落城します。

   しかし足利尊氏が勝利したことで今度も観音寺城に戻ることが出来ました。

   この六角氏は、山の上にあり難攻不落そうに見える観音寺城をこの後にも何回も落城されては取り返していきます。

   室町時代には、六角持綱がまず当主になりますが、なんとその実の弟・時綱が持綱を自害させ力ずくで当主になりました。

   しかし、幕府はそのような乱暴な実力行使は許さず、今度は時綱を自害させ、さらに下の弟の久頼を当主に据えました。

   すると今度は、久頼がなぜか自害してしまい、時綱のその息子・政堯が当主に。

   しかし、政堯は、守護代の伊庭氏の子を殺害するという大問題を起こし、久頼のその息子・高頼にまたまた当主の座は移り、そのまま応仁の乱へと突入していきます。

   高頼は山名宗全の西軍に味方し、逆に当主の座を追われた政堯は細川勝元の東軍へと味方し、そして六角氏の当主と対抗するように京極氏も東軍についてしまいます。

   この応仁の乱でも観音寺城は2回落城してしまいました。

   これほどまでに落城しやすいのは六角氏にとっての最終防衛ラインは伊賀甲賀の山側であったため、たとえ観音寺城が落城したとしても戦う手立てがあったからだと考えられます。

   この頃から六角氏は幕府に通さず勝手に家臣に領地を分配し出しました。この行為を幕府はもちろん許さず、足利義尚を大将にして第一次六角征伐が行われました。

   しかし、ここで伊賀忍者・甲賀忍者が活躍したことで、六角氏は滅びることなく、また伊賀甲賀の知名度は全国に知られることとなりました。

   義尚が病死したことで一次六角征伐は幕を閉じましたが、すぐに将軍・足利義稙は第二次六角征伐を始めます。

   ...なのですが、ここで六角氏にとって運の良いことに京で細川政元によって明応の政変が起きます。このおかげで六角氏は幕府を敵にしながらも生き残ることが出来たのでした。

「絶頂期」の頃

   戦国時代、定頼の時代になり、京極を担いだ浅井亮政との戦いが始まります。

   これは京極氏が後継争いで小競り合いをしているうちに南近江に収まっていた六角氏が領地を広げたことに対して、京極氏と浅井氏が反発して起きた争いでした。

   この戦いは定頼の方に勝利が傾き、亮政の代から久政の代になる頃には浅井は京極氏から六角氏に従属することになります。

   定頼は足利義晴にも相談役として用いられ、この頃が六角氏の絶頂期となるのでした。

   六角義賢の代になると三好長慶と戦うことになり、浅井長政がこの隙に離反してしまいます。

   近江国での地盤を固めようと義賢の息子・義治が一色義棟と協調するために義棟の娘と婚姻を結ぼうとしますが、それに義賢は激怒しました。

   一色氏はあくまでも土岐氏から下克上した成り上がり者であり、由緒正しい家柄でなかったからです。

   これが原因だったのかどうかはハッキリとわかりませんが、義治はこの後に六角氏の重鎮・後藤賢豊父子を殺害するという観音寺騒動を起こしてしまいます。

   この騒動をきっかけに優秀な家臣たちが離反を始めてしまったことで、六角氏は焦り『六角式目』などを作って信頼を回復しようとします。

   が、ここであの「織田信長」が登場するのです...

   信長は足利義昭を将軍にするため、近江国を通って上洛しようとします。 しかし六角義賢・義治親子は、そんな信長と対立してしまいました。

   そのまま戦に発展してしまうのですが、いつもの通り観音寺城を捨ててゲリラ戦へ持ち込もうと六角氏側が動くと、信長は六角氏をそのままにして近江国を通過してしまいます。

   そして義昭を将軍にして信長は「将軍の足利義昭」を手中に納める事に成功したのでした。

   その後も六角親子はゲリラ戦などを駆使して戦いますが、柴田勝家や佐久間信盛などに敵うことはなく、浅井氏滅亡を目の当たりにすると六角義賢・義治親子は伊賀へと逃亡し、今度は追放された足利義昭と合流した後、信長が滅びてから義昭と共に豊臣秀吉に仕える事になるのでした。

   後世では、六角氏の子孫は加賀藩士となり、江戸時代へと繋がっていきます。

   六角氏は何度も強敵に屠られてはいましたが、最後まで血脈を途絶えさせることはなかったのですね。

   さて、今回の記事はここまで。

   ドラマに関するさらに詳しい解説は、是非YouTubeチャンネル・戦国BANASHIをご覧ください。それではまた来週もお会いしましょう。さらばじゃ!

    (追記:参考文献など)今回の参考文献は、『図説 六角氏と観音寺城 「巨大山城」が語る激動の中世史』(新谷和之著、戎光祥出版)など。エビデンスには細心の注意を払っておりますが、筆者は一歴史好きYouTuberであり、歴史学者・研究者ではございません。もし、間違い指摘やご意見などございましたら、この記事や動画のコメント欄で教えて頂ければ幸いです。

   <第17回解説動画は、(J-CAST)テレビウォッチのオリジナル記事下動画や、YouTubeチャンネル「戦国BANASHI」からお楽しみください>


++ 「ミスター武士道」プロフィール
1990年、三重県四日市市生まれ。年間100冊以上の歴史に関する学術書や論文を読み、独学で歴史解説や情報発信をするYouTuber。
一般向け歴史書籍の監修、市や県などの依頼を受けて、地域の歴史をPRする動画制作なども手掛ける。2019年に歴史解説チャンネル「戦国BANASI」を開設。2023年春には登録者数が15万人を超えた。22年12月には『家康日記』(エクシア出版)を公刊。

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