2024年 3月 29日 (金)

【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
50.三井物産もだめ、トップが強く反対と告げられる

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あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   KDD、NTTコミュニケーションの他にも主なところでは日本テレコム、東京電力、韓国テレコム、あるいは外資系巨大ファンドなど、様々な連携候補との個別の接触を3月一杯に渡って精力的に続けた。いずれも、TMCの飛ぶ鳥を落とす勢いが産んだ知名度がなければ私などが会える相手ではなかった。だが、こちらが下手には出ずに正攻法の連携打診だったせいなのか、あるいは、ずばり泡沫ベンチャーと思われたのか、お互いの琴線に触れるような対話には行き着かず、接触から折衝と呼べる段階まで発展する持続的な関係を築くことができなかった。

   その中で、三井物産だけは例外であった。単発の面談などでなく、かの高橋徹氏を介した私的な夕食会を繰り返しながら、息の長い接触を続けていた。

   その相手はテレコム事業部の沼倉部長といい、レスリングのお陰で物産に入れたと時に含羞の笑いをもらす好漢であった。こうしたスマートな商社スタイルは、単当直入型の割切り人生しか知らぬ私には新鮮であった。

   既にこの会社は、前年の秋に「ガーネット」というADSLベンチャーを米国CLEC企業とともに立ち上げる経験を有していた。TMCが何を成し遂げ、何に苦しんでいるか、自身の体験を通して十分に把握していたのだ。それとともに、ガーネットの弱点と限界とを強く認識していた。こうした相互理解を図る会話を何度となく交わしていた。

   3月に入り、提携交渉を本格的に開始したいと切り出された。三井物産の全面的な資本参加によるTMCの子会社化を実現したいという。「物産は情報通信分野で航空母艦が欲しいのです」というのが沼倉氏の要を得た説明であった。

   インターネット時代に商社としての情報通信バリュー・チェーンを形成するには、ブロードバンドプラットホームの確保が不可欠との戦略的判断がうかがえた。社長や財務は別として経営陣の原則温存、社員雇用の持続、投資家保護などその後の事前交渉での確認事項は、さすが日本の資本主義を代表する大企業らしい力強さを我々に感じさせた。なるほど、マネーゲームの延長でないTMCの「出口」がこんな風に存在していたのだなと我々は自から切り拓いた時代の躍動ぶりに感激した。

   株式上場にも金融機関にも見放された我々に異存があろうはずはない。依然として多数派株主であった経営陣は、子会社化を承諾する旨を伝える。しかし、投資や資金供与の実行前に、デュー・デリジェンス(内部監査、以下DDと約す)のプロセスが待ち構えていた。4月に始まったこのDDは、さすが巨大商社と唸らせるほどの、徹底したものであった。

   監査法人トーマツから6名の会計士が八重洲本社に陣取り、2週間ほどかけ財務調査を、三宅坂法律事務所から3名の弁護士が同様に法務調査をそれぞれ実施した。 1億円ほどを費やしたDDであったと後で知った。この期間は、期待と不安の入り混じった緊張の日々であった。DDが終結した4月末、とくに問題はなさそうだということで、連休明けには会社トップの了承を取り付けるというところまで漕ぎ着けることができた。資金繰りも限界まで来ていた我々は、安堵の胸を撫で下ろした。株主への説明書類も物産が用意し、15億円前後の緊急融資の予定も具体化し、後は最終決済を待つだけとなった。私も、沼倉氏も、またこの間の交渉過程で意気投合していた両社の担当幹部社員も、提携成立は既定事実として将来への夢を膨らませてその時を待った。

   連休明け早々、沼倉氏から本社の近くに呼び出された私は、最悪の事態を告げられた。トップの強い反対で提携交渉は直ちに終了するという。話す沼倉氏も聞く私も辛かった。絶句しつつも何故と問う私に、理由は言えない、自分も分からない(あるいは察してくれ、だったか)という。事業性そのものへの疑義は考えられない。そんな根回し不足を突かれるようないいかげんなテレコム事業部ではないことを、私はすでに知っていた。

   窺い知れない三井物産の奥の院で何かが動いたことは疑いようがなかった。当事者を超越した何らかの大きな力がこの連休中に働いたと思って間違いない。これ以上の糾問に意味はない。これまでの尽力を深く謝して、私は彼に最後となろう別れ告げた。それ以後、この歴史的ともいえる企業連携が潰え去った真相が何であったか自分なりに情報収集して解明につとめたが、未だ究明は出来ていない。永遠に埋もれた謎で終わるのかもしれない。ただ、三井物産にとっては、情報通信事業分野に楔を打ち込む絶好の機会を逸したのは、自業自得とはいえ、総合商社がその後、着実に没落する事を意味していた。三菱商事がECコンテンツ分野での機動部隊戦略で現代性を維持できたのに比べれば、その没落振りは一目瞭然である。TMCを航空母艦として確保できていれば、誕生しつつあった3千万ブロードバンドのコンシューマ・マーケットに圧倒的な影響力を行使できた筈なのに、惜しいことをしたものだ。

   社内に交渉破綻を伝える私は破綻原因の詮索もそこそこに、次の段階へと頭を切り替えていた。日本の情報通信産業の主流と組むという最後の一戦構想はこの三井物産を最後に消えたようだ。だが、非主流を狙えれば、まだまだ最後の一戦とよべる戦いを仕掛けられるはずであると考えた。

   だが、もうこの戦いは、東めた創業者のための戦いの場でないこともはっきりしていた。何故なら、非主流と私が意識していたのは、主流にのし上がろうと牙を磨いている挑戦者たちである。彼らは自分たちの経営を主体的に展開したいのである。その意欲こそが、非主流たる所以である。必要なのはTMCの事業そのものであり、創業者と提携したいのでなく事業そのものと提携したいのである。創業者である私と小林君とは、事業そのものはすでに執行役員会というオペレーション組織に支配権を委ねている。

   彼らはその支配権を欲しているのだ。主流がそこまで踏みこまないが、非主流は絶対に踏み込んでくる。従って、これからの最後の一戦は経営権の譲渡に他ならない。如何にこの譲渡をうまくやるか、これが創業者の最後の戦いである。こう私は覚悟を決めた。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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