2024年 4月 20日 (土)

【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
28. 1株百万円!ベンチャーキャピタルの支援を得る

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   東京めたりっく通信のADSL事業が事業として成立したのは、ジャフコを筆頭とする日本のベンチャー・キャピタリストたちの投資があったからである。

   1999年12月、10億円の第三者割当増資を彼らが全額引受けたからこそ、全てが始まったのだ。この10億円で、TMCは翌2000年のADSL商用試験サービスに突入する事が出来た。彼らの決断がなければ、恐らくTMCは事業会社とはいえない、小さな実験的企業で留まるか、あるいは特異な通信技術会社で終わっていたことであろう。

   創業者たちは微々たる自己資金を工面するのが精一杯の一介な零細ベンチャーに過ぎなかった。1999年、我々にあったものは伊那実験を通じて得た経験と技術に対する名声、NTT東日本との相互接続交渉の実績、KDDの支援だけであった。

   だがその可能性に賭けた者たちがいたのだ。そして翌年の春の50億円増資が成功したのは、この10億円がタネ銭となったからである。またこの50億円が日本のADSL全面自由化の起爆剤となったのだから、このベンチャー・キャピタリスト達の存在が日本を変えたと言っても過言ではない。

   そもそも日本のベンチャーキャピタルが通信事業ベンチャーに資金投入するということは前代未聞のことであった。通信事業を興すということは、お金持ちにのみ許された領分である。電電公社民営化で生まれた第二電電にしても、その後の携帯電話会社にしても、日本資本主義の本流が乗り出すものだという固定観念が支配的であった。ソフトバンクの場合とて、ITバブルで得た1兆円以上の余剰資金があればこそ本流意識をもっての通信事業への進出であった。

   イー・アクセスにしても、もっぱら資金調達先に仰いだのはこうした固定観念が薄い米国の投資銀行であった。では、何故この前代未聞の出来事が起きたのだろうか。それは、「ITバブル」と称された「時代の空気」としか言いようがない。 

   だが、我々の側から言わせて貰えば、国の東西や産業の種類を問わず、筋の良いベンチャービジネスが登場する事にベンチャー・キャピタリストは常に飢えている。我々のビジネスが彼等のお眼鏡にかなったからだ。

   日本ではベンチャービジネスそのものを志す人達が少なすぎる。仮にそのような人達が苦労の末、起業に至っても、その人達を見守る人間が少なすぎる。これでは良きベンチャー企業は生まれない。その結果、日本のリスクマネー市場は育たないのだ。

   我々が目指したビジネスは、まさに彼等の飢餓感を満たすに十分魅力的であったのだ。

   第一に、ビジネスの規模が大きい。固定電話ユーザーは5千万回線のボリュームがある。その20%がADSLユーザーになれば(実際今はこれ以上となっている)、利用料月額5千円年額6万円に先程の1千万回線を乗じると、6千億円の市場規模に達する。

   第二に、投資額が相対的に小額で済む。ADSL装置の費用は大量購入で1ユーザー8万円(今は3万円を切る!)以内で収まる。その他の通信装置や局舎工事費、開通費用を含めても約10万円前後と見積もれる。

   5万ユーザーの獲得に50億円で済む。もし1人3万円のモデム購入費を負担して貰えれば(入会金としてこの値段前後で実際も負担してもらった)、35億円だ。これなら何とかなる金額だ。もしユーザーが5万以上になるなら、その時には上場できるだろうから、上場で得る資金と信用力で対応が可能だろう。

   第三に、利益率が高い。電話回線利用料(試験中は800円だったが、本格商用サービス開始時で200円)は未定だが、1ユーザー当りの通信費用(中継線とインターネット接続)を1,000円以下に押さえれば、実に80%もの売上利益が見込める。

   通信装置寿命を5年と想定すると、毎月の設備償却費は1.3千円だから粗利率でも50%だ。営業経費を20%に押さえれば30%の営業利益が出る。設備投資がこんなに安上がりな継続サービス事業が他にあるだろうか。

   更にADSLに加え、SDSLを投入し1メガ100万円の専用線需要を5万円程度で獲得できれば、数は少なくても利益率は大幅に向上するではないか。

   ベンチャーキャピタルにとっての最後の魅力は、自分の口からいうのも何であるが、経営陣であったようだ。なにしろ清貧であった。金儲けは二の次の経営哲学を通してきた。

   長野県伊那市での実証実験から始まり、一連の実証実験で蓄え技術力、NTTやKDDとの折衝で見せた交渉能力、郵政省からの目には見えない支援等が評価されたようだ。

   徳原さんの案内で会うことになった当時のジャフコ社長の村瀬氏が、「久々に本格的なベンチャーが現れた」と呟やかれたことが思い出される。

   そのころの我々経営陣には後光が差していたと後になって彼らから述懐されたものだ。経営陣の編成について注文は付かなかった。

   ベンチャーキャピタルの原理からすれば、株式上場まで持てば十分ということだったのだろう。その分のビジネスモデルは上記のように既に出来上がっていたのだ。ただし、そのお目付け役として徳原氏を非常勤役員に任用するようにとの要請があった。勿論、それは我々の弱点でもある資本政策を充実するという点で願ったりかなったりであった。

   ジャフコは他の日本のベンチャーキャピタルを誘い、また、我々は増資目論見書を持って様々な投資先を巡った。反応は上々であった。こうして10億円前後の増資は当てにして良いとの感触も得て、10月以後、この資金を前提として我々は動きだした。

   ベンチャーキャピタルへの第三者割当増資の株価は一株100万円とした。1千株を新規に発行し、12月15日に10億円が払い込まれた。

   その時の主要投資者を先に掲げて置く。株価は実に株価額面5万円の20倍であった。未上場会社の非公開株がこのような高値で発行できたのは我々にも驚きであった。

   しかし当時の資料を見ると、様々な将来利益計画から見て、この価格は妥当であったとされている。

   それだけ野心的な事業計画を立て、その信憑性は高かったということである。上述で例としてあげた5万ユーザーの獲得が、1つの目安となっていた。次年度会計年度が終了する2001年3月までに東証マザーズに株式公開する可能性も大きい、こんな希望的観測も寄与したと思う。

   この増資から6ヵ月後の2001年6月、創業から丸1年経ったTMCは第1回決算を迎えることになり、その決算を以って上場計画が同時に立てられていた。

   ここまで来ると、さすがに、信頼できる有能な財務担当役員が欠かせなくなってきた。そこで私が白羽の矢を立てたのが、数理技研の総務部長をやっていた新田徹君であった。

   マドロスに憧れ、早大商学部を出たあとにタンカー会社に就職し、パーサーを長年やって来た変わり者であった。数理技研を上場させてみたいと数年前に途中入社していたが、目標をTMCに切り替えて貰うこととし、移籍と役員就任の了解を得た。彼は几帳面で数字には強かった。彼がこの第1回増資と翌年5月の50億円を集めた第2回増資の実務担当者となった。

   なお、この第三者割り当て増資が行われる前、7月と9月に、額面5万円で計800株4,000万円の第三者割当増資が実行されていた。この4,000万円で 12月増資までの必要資金を工面した。

   割当先は、創業株主の私、小林君、役員、数理技研、幹部社員、東京インターネットの売却益を持ち寄って創業し、私が社長を務めていた東京エンジェルズなどが大部分であったが、自分も何がしかの株を持ちたいというめたりっく応援団ともいうべき伊那実験の参加者、また我々の個人的友人が含まれていた。

   創業時株式の600株と合わせ、計1400株の株式は、以後、創業者株(ファウンダー株)としてTMC全株の過半数を最後まで維持して行くこととなった。

   この創業者株の全株式に占める割合は、10億円増資後でも58.3%を占めた。株券も各人の了解を取って個人保持でなく会社保持とした。これにより、我々は会社売却の最後まで自裁権を失わずに済んだのである。

【主要な第三者割当増資応募先と株数】
(株)ジャフコ     375株
三和キャピタル(株)  110株
日本アジア投資(株)  100株
メガチップス(株)   100株
オリックス・キャピタル(株)75株
日本債権信用銀行     40株
その他5社       200株

【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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