2024年 4月 24日 (水)

震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(3) 生きていく「いのち」、力の源を信じたい

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   2011年3月26日放映のNHKテレビの、復興に向けて懸命の取り組みをはじめているという被災地レポートの中で、20メートルを超える大津波に襲われた岩手県大船渡市のお年寄りが、「俺はこれで二発目だ。そのときもみんな持っていかれた。だけどいのちがあって元気にやれば何とかなるよ」と微笑みながら語っていた。その言葉と、そう語ることのできる力の源を信じたいと思う。

   昭和三陸地震でもチリ地震でも、大船渡は津波で大災害がもたらされたことが記録に残っている。それでも、「いのちがあって元気にやれば何とかなる」ものなのだ、と。それは大事な証言として聞いておきたい。

   前に書いたように、この国の地震や台風の災禍は、われわれの「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶」(寺田寅彦)として積み重ねられている。たとえいかなる災禍があろうとも、そのたびごとにそうした記憶を奮い起こしながら人々は立ち直ってきたのである。その事実としての力と、そのひとつひとつの力を根底でささえてきたものは何だったのか、確認しておきたい。

大いなる「おのずから」の働き

   日本語では、「みずから」と「おのずから」とは、ともに「自(か)ら」と書く。そこには、「みずから」為したことと、「おのずから」成ったこととが必ずしも別事ではないという受けとめ方がある。

   われわれはしばしば、「今度結婚することになりました」とか「引っ越しすることになりました」という言い方をするが、そうした表現には、いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それは、ある「おのずから」の働きでそう「成ったのだ」と受けとめるような受けとめ方があることを示している。

   むろん、「みずから」為すことと「おのずから」成ることとをそのまま全部重ねてしまえば、それは無責任な成り行き主義になってしまうが、このような言葉遣いや考え方には、それだけではなく、「みずから」為すことの背後には、「みずから」を超えた、ある大いなる「おのずから」の働きへの感受性があるように思う。

   問答無用の不可抗の災禍で失われた多くの「いのち」に心から哀悼の意を献げながら、同時に、生きていく「いのち」を働かす大いなる「おのずから」をもまた信じたい。


##プロフィル 竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。日本倫理学会会長。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。


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