2024年 3月 29日 (金)

震災と日本人 倫理学者 竹内整一 
連載(5) 文明が進むほど天然の暴威は激烈の度を増す

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   このコラムで、日本人にとって地震や台風など「天然の無常」は、生老病死同様、基本的には如何ともしがたい「自然」の「おのずから」の働きなのだと、そうあらためて「覚悟」するところから始めざるをえない、という考え方を、寺田寅彦を援用しながら述べた。

   読者から、それでは「意志の無い羊の群れに、ただ慰撫を語っているだけではないか 」といったご批判を頂いた。そういう見方もあるだろう。大事なところなので、もう少し丁寧に説明したい。

   寺田の言っていることも、むろん、日本人は、自然災禍をそのままに、ただ手をこまねいて何もせずにきたということを意味するものではない。いうまでもなく、人間は、動物や植物と違って、「みずから」すすんで為すという主体的・能動的な営みにおいて、自然災禍をくい止めたり、改めたり、変えたりすることができる。意思をもち、願いをもち、努力をし、工夫をし、また、協力をし、譲り合い、助け合うことのできる存在なのである。そのことによって、ヒトは人となり、文化や文明を築いてきた。

   それは洋の東西を問わないごく普遍的なあり方であり、人間という生き物は、すべからく「おのずから」の働きと「みずから」の営みの「あわい」において生きてきたし、現に生きている。日本人とて、その点では、まったく変わらない。ただ、その「あわい」のあり方に、「天然の無常」をふまえた日本人の思想文化の特質があるということである。

   つまり、寺田が言おうとしているのも、当然ながら「みずから」の営みそのものの放棄ではない。そのあり方の問題なのである。とくに寺田の懸念は、ひたすら「人間の力で自然を克服せん」としてきた西洋近代科学のあり方に向けられていた。

復興のあり方への願いと意思をこめて

「西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し、従って伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父のふるった鞭のひと打ちで、その建設物が実にいくじもなく壊滅する、それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる、といったような場合が近ごろ頻繁に起こるように思われる」(寺田寅彦「日本人の自然観」)。

   多くの方が被災し亡くなり苦しんでいる今この時点で、こうした文章を引くのは適当ではないことを承知であえて引用したのは、それでもわれわれに伝わる「遠い遠い祖先からの遺伝的記憶」の持つ力に期するところがあるからだし、また、これからの復興のあり方にも大いに関わってくる指摘だと思われるからである。

   この文の指摘している「厳」しさは、むろん東北・関東各地の海沿いの被災地各地のことでもあるが、とりわけ「原発」という「人工」の受けている現状にある。「原発」問題については、今後きちんと真剣に議論する必要があるが、今はともあれ、まさに必死になって前線で戦っておられる現場の皆さんを心から応援し、一刻もはやく収束させることを願いたい。それはすぐれて「みずから」の営みに属している。 

   物理学者・寺田の提言は、「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実」(寺田寅彦「天災と国防」)を直視したところでの、あるべき「文明」「人工」の建設に向けられている。単に「おのずから」を征服しようとするのでなく、それをそれとしてきちんと受けとめたところでの「みずから」の営みの主張である。


##プロフィル 竹内整一
たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。日本倫理学会会長。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』(角川選書)を新刊した。


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