2024年 4月 26日 (金)

中央一辺倒の価値観や理念が「メルトダウン」した【岩手・花巻発】

会場を埋め尽くした被災者ら参加者=花巻市内のまなび学園で
会場を埋め尽くした被災者ら参加者=花巻市内のまなび学園で

(ゆいっこ花巻支部;増子義久)

   東日本大震災から3ヶ月が経過した12日、「いわてゆいっこ花巻」が主催する「ぼくらの復興支援フォーラム」が花巻市内で開かれ、同市内に一時避難している大槌町の被災者や市民ら約80人が今後の支援のあり方などをめぐって意見交換した。


   第一部では「ゆいっこ」結成の経過や救援物資の提供、日帰り温泉入浴ツアー、被災現地での「弔いお花見会」、内陸避難者へのフォローなどこれまでの活動状況の報告が行われた。被災者からは「衣装や食器を入れる収納箱が欲しい」「仏壇も流されてしまった。お盆も近づいてくるので、小さなもので良いから仏壇が欲しい」「血圧計があれば」「仮設住宅に移れば足の便が悪くなる。自転車があれば…」などの意見が相次ぎ、3ヶ月経った今も不自由な生活を強いられている実態が浮き彫りになった。


   フォーラムに先立ち、「いわてゆいっこ大槌」が進めている「大槌復興まちづくり住民会議」が町外で初めて開かれた。花巻市内の温泉施設や雇用促進住宅などに一時避難している約30人が参加、現地から駆けつけた柏崎浩美さんと赤崎友洋さんが現地の状況を報告した。この中で大槌町の現時点での被災状況について、死者・行方不明者が1,727人、花巻や遠野、盛岡など内陸部への一時避難者が634人、町内避難者6,456人の計8,817人。震災前の人口15,239人(3月1日現在)に比べて大幅に減っていることが明らかにされた。


   大槌町では今回の大震災で町長が死亡するなど行政機能が麻痺し、復興計画も遅々として進んでいない。町長選と町議選は今年8月に予定されているが、住民会議の席上「内陸避難者の元に町議が訪ねてきたことはない」「漁師の半数が犠牲になった。漁業の再建は本当に可能か」「復興計画が遅れれば、既存の水産加工業なども他の被災地に逃げてしまう。このままでは大槌はゴーストタウンになる」「過去の因習を破り、若い人たちの力で大槌の未来を築いて欲しい」など現状にいらだちを見せる意見が相次いだ。住民会議は今月中にこれまで開いた会議の意見を集約して、提案書の形で町に提出することにしている。


   一方、一時避難者の中にはそのまま花巻市に転入する人たちも増えており、同市の人口は前月に比べて増加に転じた。「いわてゆいっこ花巻」としては今後、仮設移住後の被災地支援と転入者への支援の両面に力を入れることにしている。今後の運動指針として、以下のよう共通認識が表明された。



   あの大災害から昨日で3ヶ月が経過しました。新聞報道で知った方も多いと思いますが、人文科学分野ですぐれた功績を挙げた人物に与えられるカタルーニャ国際賞(スペイン)を受賞した作家の村上春樹さんは節目のその日、今回の大災害、特に福島原発の事故に触れ、次のように述べていす。


   「それは日本が長年にわたって誇ってきた『技術力』神話の崩壊であると同時に、そのような『すり替え』を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです」


   これはとても重い言葉ですが、私たちが「いわて・ゆっこ」を立ち上げた時の思いと根っこの部分で重なりあっています。「いわて・ゆいっこ」は災害3日後の3月14日、花巻市内の有志十数人で結成されました。その時の私たちの共通認識には村上さんの思いの部分にさらに「なぜ、東北なのか」という問いかけがのしかかっていました。


   東北地方は古くから「中央」を支えるための食料基地や金銀の産出地としての位置づけを強いられてきました。水陸万頃(ばんけい)の地ともてはやされ、寒さに強いヒエやアワなどの穀物に代わって、稲作を強制された結果、飢饉の悲劇を生み出しました。豊穣の海と言われた三陸の海も結局は「中央」の欲望を満たすためのものでしかありませんでした。


   そして、私たちは今回の大災害を機にはっきりとその正体を見極めるに至りました。「中央」に電力を供給し続けてきた原発がなぜ、東北の地に立地されなければならなかったのか。その原発がメルトダウン(炉心溶融)したということはまさに「これまでの中央一辺倒の価値観や理念が一瞬のうちに解け落ちた、つまり瓦解した」ということだと思います。


   「いわて・ゆいっこ」の設立趣意書にはこう記されています。


   …私たちは今、苦難の歴史から学んだ「いのちの尊厳」という言葉を思い出しています。平泉・中尊寺を建立した藤原清衡(きよひら)は生きとし生ける者すべての極楽往生を願い、岩手が生んだ詩人、宮沢賢治は人間のおごりを戒め、「いのち」の在りようを見続けました。そして、昨年発刊100年を迎えた『遠野物語』は人間も動物も植物も…つまり森羅万象(しんらばんしょう)はすべてがつながっていることを教えてくれました。この「結いの精神」(ゆいっこ)はひと言でいえば「他人の痛み」を自分自身のものとして受け入れるということだと思います。今こそ、都市と農村、沿岸部と内陸部との関係を結(ゆ)い直し、共に支え合う国づくりに立ち上がらなければなりません。…


   宮沢賢治は2万人以上の死者を出した明治29年の「明治三陸地震津波」の約2ヶ月半後に当地・花巻の地に生を受けました。そして、そのわずか4日後には東北地方最大規模の「陸羽地震」が発生。さらに、37歳の短い人生を閉じたのは昭和8年の「昭和三陸地震津波」の約半年後のことでした。


   このように賢治の人生は地震や津波などの自然災害、さらには飢餓地獄に翻弄された人生でした。賢治が理想郷として思い描いた「イーハトーブ」は実はこうした過酷な風土の落とし子だったとも言えるわけです。


   人類学者の中沢新一さんは近著の対談集『大津波と原発』の中でこう述べています。


   「イーハトーブの思想はこれからの復興の基本思想に据えていくべきものです。彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です」


   私たちは今、これからの地域づくり―国づくりを前に重大な選択の岐路に立たされています。今回、壊滅的な被害を受けた三陸海岸一帯にはフランスの人権宣言に匹敵する「南部三閉伊一揆」の記憶が刻まれています。そして、賢治の「雨ニモマケズ」は今、復興を託すメッセージとして世界中で朗読されています。


   「いわて・ゆいっこ」は東北―岩手の地に地下水のように流れる、こうした記憶を今一度呼び戻し、被災者の皆さんと共に光輝く未来を目指して前へ進もうと覚悟を決めています。「試されているのは私たち自身の側なのです」―と設立趣意書は結ばれています。私たちは今こそ、この原点に立ち返り、「顔の見える、息の長い」支援の継続をここに確認したいと思います。


   皆様方の支えがあったからこその「いわて・ゆいっこ」です。これからもご協力のほどをよろしくお願いいたします。長くなりましたが、これをもって、開会のご挨拶とさせていただきます。



ゆいっこは民間有志による復興支援組織です。被災住民を受け入れる内陸部の後方支援グループとして、救援物資やボランティアの受け入れ、身の回りのお世話、被災地との連絡調整、傾聴など精神面のケアなど行政を補完する役割を担っていきたいと考えています。
岩手県北上市に本部を置き、盛岡、花巻など内陸部の主要都市に順次、支部組織を設置する予定です。私たちはお互いの顔が見える息の長い支援を目指しています。もう、いても立ってもいられない───そんな思いを抱く多くの人々の支援参加をお待ちしています。
■ホームページ http://yuicco.com/
■ツイッター @iwate_yuicco

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