2019年 12月 16日 (月)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(13)
平成の天皇が変えた「国体」と「政体」の関係

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   近代日本の天皇は、戦争にどのように向き合ったか、を見ていくことは極めて重要である。

   この国の主権者として、あるいは大元帥という立場で戦争の決定、継戦の確認、終戦への道筋に関しての責任を負っているからである。天皇自身の意思そのものより、折々の臣下の者が自らが仕える天皇をどのように考えていたか、によって戦争の内実が変わっているからである。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 2016年8月のビデオメッセージでは、終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた(画像は宮内庁提供動画より)
    2016年8月のビデオメッセージでは、終身在位が制度としていかに過酷かを訴えた(画像は宮内庁提供動画より)

「おことば」の「憲法を守り」の意味

   一例を挙げれば、日清戦争や日露戦争時に、政治、軍事指導者は明治天皇が戦争に消極的なことを説得している。明治天皇は大本営会議に伊藤博文首相を列席させよと、日清戦争時には特別に注文をつけている。昭和天皇が軍部の暴走に対していかなる手を打てばいいのか、有効な手立てを持っていなかったのとは対照的であった。天皇を政治、軍事の指導者たちがどのように見ていたのか、その違いが戦争という局面では明確に現れて来るように思うのだ。

   明治、大正、そして昭和の前半部には共通点があった。それは一言で言えば、天皇制下の軍事主導体制である。国体があってその下に政体があるとの言い方もできた。 その軍事体制は天皇の個人的意思や思考とは関係がなく、いわば天皇は国家の一機関として存在するかたちになっていた。明治、大正、そして昭和の天皇はいずれも戦争それ自体には反対、ないし消極的であった。その理由は推測はできるが、真の理由は天皇という存在の身にしかわからないというべきかもしれなかった。国体の下に政体があるとみれば、近代日本の天皇は意思を持たざる存在であらねばならなかったと断じていいであろう。

   昭和天皇の戦後の人間天皇、あるいは象徴天皇という姿は、国体の下に政体があるのではなく、むしろ国体と政体は憲法上は五分五分の関係と言ってよかった。しかし昭和天皇は、天皇制下の民主主義体制と考えていたと思われる。やはり国体の下に政体があるとの受け止め方は、戦後の記者会見でも臣下という語で国民を語った時があり、終生その考えは変わらなかったのである。13歳から20歳までの7年余、東宮御学問所で受けた帝王学は身体から離れなかったのである。

   こうした3人の天皇に対して、今上天皇はその図式を根本から変えた。即位後の初めての国民にむけての「おことば」の中にすでにその片鱗は示されていた。私が注目している一節の中に、天皇はこの憲法を守り、それに従って責務を果たすと述べる表現が盛り込まれている。「を守り、それに」というわずか5文字を加えたに過ぎないのに、その意味するところは本質に迫っている。今上天皇は政体の下に国体をつけるという画期的な試みをおこなっている。天皇の位置づけも時代の中で変遷し、そして新しい形が模索されていくのである。

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