2019年 9月 18日 (水)

保阪正康の「不可視の視点」
  明治維新150年でふり返る近代日本(16)
  青年将校の独善に苦悶した昭和天皇

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   近代日本にあって、天皇としてのその姿をもっとも期待される形で具現化したのは、いうまでもなく昭和天皇である。明治、大正の二人の天皇は正式に帝王学を受けていない。というより天皇はどのような役割を果たすべきか、それは現実の中で学んだといっていいだろう。同時に明治天皇は、自らの理解した天皇像を大正天皇に伝えようとしたが、それは思うようにいかなかった。

   明治天皇は晩年になって、皇太子教育(大正天皇への帝王学になるのだが)に失敗したことを側近たちに漏らしている。その分だけ、皇孫たちへの教育に情熱を傾け、学習院の院長に信頼している乃木希典を据えたのは、よく知られていることだ。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 昭和天皇。青年将校の動きには苦悶を続けた
    昭和天皇。青年将校の動きには苦悶を続けた

主権者と大元帥の二重性

   昭和天皇は皇太子時代の、大正3(1914)年から10(1921)年まで東宮御学問所で限られた学友と共に特別教育を受けている。この7年余の教育により、昭和天皇は近代日本が求めている君主という立場を理解したのである。その理解は立憲君主制の枠内にとどまる天皇であり、ひとたび政治、軍事指導者に大権を付与した以上、彼らの決定には異を唱えない。その代わりにその責任からは免れるというのであった。それが帝王学の教えるところであった。

   ある意味では、昭和天皇が自らの力におびえることでもあった。というのは帝王学で学ぶことは、この国の主権者としての天皇の役割、軍を率いる大元帥としての役割を自覚することでもあり、ふたつの顔を持つのである。わかりやすく言えば、天皇が軍事指導者からの報告を聞きながら、その折々の会話は二重性を持っていることになった。たとえば太平洋戦争時に特攻作戦の報告を受けた時に、「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」と答えている。このうちの「そのようにまでせねばならなかったか」はこの国の主権者としての発言、「よくやった」は軍を率いる大元帥としての発言ということになるように思う。この二重性は帝王学を身につける過程で学んだとも思われる。近代日本にあって、天皇制における天皇の役割は時代によって少しずつ形を作っていったが、昭和天皇はその内容がひとまず完成したといっていい。

   そのことは昭和天皇自身は、近代日本が作り出した天皇像を忠実に受け入れ、そしてその像に息吹を与えたことになる。むろんそこには天皇自身の意思や思考があったわけではない。そのような意思を持たない、あるいは捨てる、それこそが要求されたのであった。昭和天皇が即位した時はまだ25歳である。その前の摂政の時代から数えると、20歳から天皇という立場に立っていたことになる。当然ながら政治、軍事指導者にとってはこの若い君主を我々が育てるのだという過剰な思いがあった。その種のエピソードはいくつもある。

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