2024年 4月 20日 (土)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(23)
戦争末期に露呈した「先達への非礼」

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   太平洋戦争の終結に至るプロセスで、近代日本の基本的な問題が浮き彫りになっていることに、私たちは気づくべきなのだが、その視点で論じられることはこれまで全くといっていいほどなかった。

   なぜだろうか。思うに昭和天皇のご聖断が国家の危急を救ったという見方で論じられている限り、この視点は決して論じられることはなかったのである。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 硫黄島の戦いは、本土決戦への態勢を整えるための玉砕戦だった
    硫黄島の戦いは、本土決戦への態勢を整えるための玉砕戦だった
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 硫黄島の戦いは、本土決戦への態勢を整えるための玉砕戦だった

本土決戦は政治の側の理解を得られない

   その視点とは、帝国主義的論理を特化させた昭和の陸海軍が、いわゆる軍事の限界線を全く考えない無統制の軍事集団になってしまった、というものである。こういう集団は、二つの特徴を持つ。あえて箇条書きにしておきたいのである。

(1) 戦争を勝つまで続けるというニヒリズム
(2) 国家の歴史に対する冒涜、先達への無礼

   いわば国家の威信に傷がつくだけでなく、先達への礼を失した暴挙につながり、次代の児孫への極めて非礼な理念を示しているといいように思う。本稿のテーマは近代日本の史実を通して、可視と不可視の領域を見据えて日本人の国民性やその民族的特性を検証する点にあるのだが、その極端なケースが終戦時の陸海軍の強硬派の論理と行動の中に見られるのだ。そのことを説明しておきたい。

   陸海軍の強硬派(彼らは本土決戦を主張したのだが)は昭和20(1945)年に入ると、本土決戦の方向に一斉に舵を切っている。参謀本部の作戦部などが密かにその方針を取り始めたのだが、それを国策に引き上げることをすぐには明らかにしなかった。本土決戦は政治の側の支持を簡単には得られないことを知っていたのためだ。昭和20年に入っての硫黄島戦や沖縄戦は本土決戦の態勢を整えるための玉砕戦でもあった。

勝機がないのに特攻作戦や玉砕戦を行った理由

   なぜあれほどまでに沖縄本土決戦を行なったか、あるいは戦争末期にも関わらず、勝機などありようはずもないのに特攻作戦や玉砕戦を行ったかは、全て軍事指導者の責任逃れだったといってもよかった。この点が曖昧にされていることは太平洋戦争の総括が充分に行われているとは言えないことにつながっている。沖縄を本土決戦の第1号と称するならば、それに続く第2号、第3号を大本営の作戦部は考えていくわけだが、その根底にある発想が前述の二点なのである。

   (1)の心理は、「聖戦完遂」「一億総特攻」といった語が用いられた。戦争を勝つまで続行する心理は、軍人やどの国の軍事組織も基本的にはそう考える。特に日本の軍事指導者はさしたる根拠もなく、「戦えば負けない皇軍」なる神話を作り上げ、それを国民に強要した。軍事指導者は負けるとするいう事態は、国民が軍事に協力しないからだとの責任逃れを巧妙に用意し始めたのである。

   さらに日本の場合、軍人は戦争に勝つことにより、国に貢献してきたと自負するのが近代日本の慣行である。日清戦争では、国の予算の2倍以上の賠償金を得て、明治30年代の国家繁栄の基礎を作ったとの自負を持った。日露戦争でも勝つことで賠償金を獲得し、国を富ませると国民に約束し、増税での戦費調達を図った。しかしその約束は果たされずに日比谷焼き討ち事件などの暴動が起こっている。軍事指導者は戦争に勝って、賠償金を取り、自らは華族に列するのを最大の目標にしていたのである。国民はそのための駒のような存在でもあった。

   さらに(2)について言えば、軍事指導者は国家を繁栄させる役割を天皇(大元帥、そして神格化した存在)から仮託されているとの神話を作り上げていった。それ故に自分たちは一般の国民とは異なる立場にいると一方的に解釈し、歪んだエリート意識を作り上げて行ったのである。この傲岸さが太平洋戦争の戦略や戦術の全てに現れていた。兵士一人一人を人間扱いしていない戦略にそれがよくうかがえた。

15-6歳の少年が爆弾をリュックに詰めて...

   昭和20年6月に義勇兵役法ができ、具体的に本土決戦第2号 、第3号と続く作戦は、いわば「一億総特攻」なのだが、男性の15歳から60歳、女性の17歳から40歳までは陸軍の名簿に登録され、いつでも「義勇兵」という名の特攻隊員に徴用されることになっていた。

   まさに15-6歳の少年が爆弾をリュックに詰めて、本土に上陸したアメリカの戦車に体当たりしていくというのであった。こんな戦争を行うというのは、この国の文化や伝統に背反する無礼な態度だと思うが、しかしそういう正常な判断はすでにできない状態になっていたのである

   こうした頽廃は軍事が政治の上位にあって生まれた異様さであった。戦争末期になって露呈してきた異様さは、この国の文化や伝統を形成してきた先達へのまさに非礼な態度だといってもよかった。この視点こそ、不可視の領域のことなのだが 、これを理解せずに戦争終結へのプロセスを見つめたところで本質はわからないというべきであった。(第24回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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