2019年 12月 13日 (金)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(34)
近代日本にとって戦争は「事業」だった

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   日中戦争時のトラウトマン工作の挫折は、実は当時の日本の政治、そして日本の軍事組織の考え方の本質をよく示している。このことは近代日本史の不可視の部分で、普通に歴史解釈をしていると全く見えてこない。そこでこれからの何回かはこの本質についてふれていく。前回指摘したように本質は2点ある。(1)は戦争と賠償の関係であり、もう一点の(2)はこの時期の国際関係の紛争の意味を理解していなかったということであった。

   まず(1)について詳述していくことにしたい。

   いきなり妙なことをいうとお思いかもしれないが、近代日本は戦争を一つの事業と考えていたと断言していい。つまり国家の「営業品目」だったのである。戦争に勝って賠賞金を取る、それが事業の内容である。なぜそう言えるのか。私がそう考えるに至った理由は実に簡単で、1945(昭和20)年8月9日、そして14日の御前会議で参謀総長の梅津美治郎が何度か、ポッダム宣言には賠償金のことがどのように書かれているのか、と問うているのである。2回に渡る御前会議はアメリカ、イギリス、そして中国の指導者たちから無条件降伏するように迫られた宣言を受諾するか否かを決する会議であった。その会議で、梅津は賠償金を取られるのかと、しきりに気にしていたのである。

   外相の東郷茂徳は、軍国主義に連なる諸施設の解体などは要求されているが、賠償金についてはわからない、と答えている。軍事の責任者の一人がこうした不安を漏らすことにより、私たちは意外な事実を確認できるのだ。戦争に負けることで、どれほど多くの 賠償金が取られるのか、この国は亡国の道を歩むのではないかと梅津に代表される軍事指導者たちは恐れたのである。この事実は逆にあることを教えている。

  • 日露戦争は「事業」としては成功だったのか(写真はポーツマス講和会議)
    日露戦争は「事業」としては成功だったのか(写真はポーツマス講和会議)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん

10年おきに戦争を繰り返す

   日本の軍人たちが1885(明治18)年の第一次伊藤博文内閣の誕生以来、ほぼ10年おきに戦争を繰り返してきた。次のようにである。

1894~95(明治27、28)年 日清戦争
1904~05(明治37、38)年 日露戦争
1914~18(大正3~7)年 第一次世界大戦への参戦(シベリア出兵の撤退は1922(大正11)年)
1931(昭和6)年 満州事変
1941(昭和16)年 太平洋戦争の開始

   10年おきに戦争を行ってきたということは、10年おきに戦争という事業を行って、賠償金を獲得し、領土の拡大、制圧地域の資源収奪を目指したと言っていいであろう。軍事はこの「営業」に自信を持ち、自分たちがまさに「富国強兵」の富国を代弁しているとの強い自負を持っていたのである。こうした自負はなぜ生まれたのか、その点についての私の見方は、日清戦争時の勝利による多大な賠償金の獲得にある。権益として台湾を領土として獲得したほか、賠償金として2億両(日本円で3億円余)を獲得した。日本の戦費はおよそ2億円であったから、まさに戦争太りしたわけである。

   この賠償金により、日本は一気に列強に加わることになった。同時に戦争の過酷さを教えられることにもなった。この時の戦争では1万3488人の戦死者を出した。そのうちの1万1894人は脚気などによる病死であった。この自省がなく、戦略もなくただひたすら戦うことのみの軍隊の誕生とも言えた。

賠償金を元手に英米に留学

   しかしともかく、多大な賠償金によって明治30年代の日本は、まず軍備の充実に走った。結果的に日露戦争時の軍備は先進帝国主義のレベルに達したとはいえないものの、軍事大国の方向により傾斜していった。加えて明治30年代に日本の軍人、学生、研究者などが相次いでアメリカ、イギリスなどに留学したり、研究生活を送ることができたのは、清国からの賠償金に助けられたが故のことだった。日本の軍人たちは戦争に勝って、賠償金を取ること、それがお国への方向と考えたのもこうした背景を確認すれば容易に頷けた。

   しかも1884(明治17)年に華族令が制定されたことで爵位を与えられることにもなり、軍事指導者はいずれもこうした恩恵に浴している。昭和の軍人たちが密かに爵位をもらうべき天皇側近に働きかけていたことは公然たる事実であった。軍人が賠償金をとって国に奉公しようと考えていたのは日露戦争時にも明らかになる。

   アメリカの仲介で、ポーツマスで講和交渉が行われた。このとき、日本側は我々の方が軍事的に勝っているのだから、賠償金を要求するとロシアに詰め寄った。ロシア側はそんな要求には応じられない、ではまだ戦争を継続するかと言わんばかりの態度であった。日本側は慌てて引っ込めている。日本政府と軍部は、国民に対して戦費調達のために相次いで増税を続けてきた。それは戦争で勝つことで一気に取りもどして減税に踏み切るがごときの説得を続けていた。しかしそれは実現不可能であった。

   怒った国民が日比谷での集会の後、暴動まがいの焼き討ち事件を起こしたのは、賠償金が取れないことへの不満の爆発だったのである。(第35回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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