2021年 3月 1日 (月)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(20) 日本は「グローバル対話」の促進者に

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タリバンの台頭

   アフガンでは、1979年の侵攻以来駐屯していた旧ソ連部隊が1989年に完全撤収した。それまで米国はパキスタンのペシャワールやクエッタなどの難民キャンプを拠点に中央情報局(CIA)が巨額の資金や大量の武器を投与し、10代から20代の若者たちを「ムジャヒディン(聖戦の戦士)」と呼ばれる兵士に仕立て上げ、アフガン各地に送り込んでゲリラ戦を闘わせていた。援助の対象は、ほとんどがイスラム教原理主義勢力であり、穏健な民主主義者は意図的に排除された。アメリカは20年後に、この選択を悔やむことになる。

   旧ソ連の撤退で、米国は関与をやめ、それを引き継いだのが地域の有力国であるパキスタンとサウジアラビアだった。

   だが、パキスタンとサウジアラビアは当初、ムジャヒディン各派の中でイスラム教スンニ派の原理主義勢力を集中的に支援して、同勢力よるアフガン政権の樹立を画策した。だが、両国の思惑は実を結ばなかった。旧ソ連軍が撤退して政権が目の前にちらつき始めると、ムジャヒディン各派は骨肉の権力抗争を始めて、内戦を重ねて国土を荒廃させた。

   パキスタンは1994年になると、いつまでも政権を握れないムジャヒディンに業を煮やして、新たなスンニ派イスラム教原理主義勢力の創設に踏み切った。そのころ国連には、現地のオフィスから「難民キャンプでアフガン青年たちの集まりが見られる」との報告がしばしば届いた。この青年組織が最初に注目を浴びたのは、1994年の夏に彼らがアフガン第二の都市であるカンダハールで蜂起して、同地を支配する軍閥を打ち負かしたときだ。果ての無い戦乱に疲れたアフガン国民は当初、新たな青年組織によるイスラム法に則った厳格な統治を歓迎した。青年組織は抗争を繰り返すムジャヒディンを次々と打ち破り、1996年の秋にはカブールを含む国土のかなりの部分を支配下に置いた。

   この青年組織は自らを「タリバン」と呼んだ。これはもともと「学生」を意味するアラビア語「タリブ」の複数形で、イスラム神学校(マドラッサ)で学ぶ若者たちを指す。彼らが急成長を遂げたのは、ムジャヒディンを見限ったパキスタン軍統合情報局(ISI)が、資金、武器、戦法の面で全面的にバックアップしたからだった。

   タリバンは1998年には、国土の7~8割を実効支配するまでになった。しかしそれ以降、タリバンの拡張は止まり、戦闘は膠着状態に陥った。これは、旧ソ連軍に頑強に抵抗して「パンジシールの獅子」と恐れられたマスード将軍が率いるタジク人勢力を、タリバンが攻めきれなかったためだ。戦線が膠着すると、タリバンの勝利に期待したアフガン国民の間に厭戦気分が広がり、タリバンは戦闘の維持に必要な兵員や資金を集めるのに困難をきたすようになった。

   堅陣を落とせずに苦慮していたタリバンに救いの手を差し伸べたのが、サウジアラビアに大富豪の息子として生まれ、旧ソ連支配下の当時はムジャヒディンを支援したことで知られるビンラディンだった。彼は、一時パキスタンから帰国したが、1990~91年の第一次湾岸危機・戦争後に王家を批判したためにサウジアラビアから追放された。その後はスーダンを拠点にしていたが、アメリカの追及が厳しくなると1996年にタリバンの支配が広がるアフガンに拠点を移した。

   アルカイダはタリバンに、最初は資金を提供し、次には兵員不足で悩むタリバンにアラブ諸国の戦闘員を送り込んだ。アルカイダは最後に、原理主義ではあるがアフガニスタン以外に興味を示さなかったタリバンに、反欧米イスラム過激主義を広めた。

   川端さんは、ブラヒミ氏が正式の担当特使になる前の95年夏から、前任の特使と共にタリバン幹部と接触し、和平への感触を探った。

「幹部といっても30代になるかならないかの年齢で、その若さに驚かされた。我々はアフガンの和平を汚したムジャヒディンをやっつけ、真のイスラム国家を樹立すれば、神学校に戻る。政治にはかかわりない、と目を輝かせて真剣に言っていたのが印象的だった」

   彼らはパレスチナ自治政府の指導者アラファトの写真を見せてもその名を知らず、国際情勢に疎く、関心もなかった。それが変わるのは、アルカイダが浸透して以降だった、と川端さんは指摘する。

   それを象徴するのが、9・11事件の半年前に起きたバーミヤンの石仏破壊事件だ。文明の十字路として栄えたアフガンにはもともと、外来の文化や宗教に寛容であり、サウジアラビアのワッハーブ派のような偶像崇拝を禁じるイスラム原理主義とは軌を一にしない。タリバン指導者のオマール師自身、1990年代には、国連に対して石仏に手を付けないことを約束していた。そんなオマール師が石仏破壊まで突き進んだことは、タリバンが頭の中までアルカイダに乗っ取られたことを意味する。国連関係者は、衝撃と共に、そう受け止めた。

   タリバンが石仏を破壊したとき、アフガニスタンを巡る歴史の歯車が再び回り始めた。彼らが掲げる原理主義の矛盾が一挙に噴き出し、アフガニスタンを国際政治の表舞台に押し出したのだ。

   北部同盟を率いたマスード将軍は2001年9月9日、TVジャーナリストを装った2人のアラブ人よる自爆テロで暗殺された。旧ソ連軍による幾多の猛攻をしのぎ、タリバンとの7年にわたる死闘を戦い抜いたマスードであったが、綿密に計画され、着実に実行された自爆テロを予想すらできなかった。同時多発テロ事件が起きる2日前のことだ。全国制覇に向けた最後の障害を取り除きたいタリバンと、対米テロを実施するための安全地帯を求めるアルカイダのとの間の、相互の利益にかなった「取引」であった。

   こうして9・11事件から過去にさかのぼれば、すべては「その日」に向けて、後戻りできない布石が着々と打たれていたことがわかる。

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