2021年 2月 25日 (木)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(20) 日本は「グローバル対話」の促進者に

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戦時から「国際機構」を構想

   今回のコロナ禍について川端さんは、「100年に1度の危機」と見る。

   1月には、「中国からの流入を食い止めれば収まる」と思い、その予想が「ダイヤモンド・プリンセス号」の集団感染で裏切られ、「中国で感染が抑えられれば局地的な流行で済む」という2月末の見通しは、3月の欧州への感染拡大でひっくり返った。

   その時々のメディア情報をベースにした予想や判断が、次々に覆される。前例に囚われる官僚や、決断のできない政治家は、未曽有の感染症の前に立ちすくんだ。感染病の専門家さえ、未知のウイルスを前に見解を二転三転させた。これまでに、これほどの広がりとインパクトでそうした経験をしたことはなかった、という。

   そのうえで、川端さんは、2度の世界大戦と、その戦争のさなかに構想された国際機関について言及した。

   最初は第1次世界大戦と、その後にできた国際連盟だ。19世紀までの戦争は数か月か長くても1~2年で決着し、犠牲になったのも職業軍人が多かった。だが初の大戦は4年余りに及び、戦死者だけで推計1600万人という膨大な犠牲をもたらした。大戦の後半にはスペイン風邪で兵士や有力政治家が次々に倒れ、「国家を指導できるような国際機関の創設を」という、それまでの価値観ではありえないような枠組み転換を求める声が沸き起こった。

「しかもその構想が発表されたのは、まだ大戦中の1918年1月、ウッドロー・ウイルソンが米議会演説で発表した14カ条の『平和原則』でした。彼はその最後の14項目目に、『国際平和機構』の設立を掲げた」

   しかし、人類初の平和のための国際機関である国際連盟は、第2次世界大戦の勃発を防げず、20年足らずで破綻した。世界は1939年、ドイツのポーランド侵攻によって再び大戦に突入し、1941年の日本による真珠湾攻撃で戦域は太平洋に拡大した。

   この時も、太平洋戦争が始まる前の1941年8月に、フランクリン・ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は、「大西洋憲章」に署名し、「一般的な安全保障のための仕組みの必要性」を確認している。

   連合国は、1944年8月から米国の首都ワシントンの郊外にあるダンバートン・オークス邸で、戦後の国際機構について素案をまとめ、45年4月から6月にかけ、サンフランシスコで開かれた「国際機構に関する合同会議」で、国際連合の憲章を起草した。

「この期間は、沖縄でいえば、4月1日に米軍が本島に上陸し、6月23日に沖縄守備軍の組織的な抵抗が終わり、沖縄戦だけで20万人近い人々が亡くなった時期にあたります。戦場で人々が殺し合っている時期に、戦後の秩序について取り決めたのは、もう二度と、こんな大規模殺戮を許してはならない、という強い意思の表れだったと思います」

   川端氏はそう指摘する。大戦中に両国際機関の創設準備がなされたのは、国際組織によって主権を制限されたくないという国家の本音を抑え込むには、政治指導者が戦争の痛みをじかに感じるこの時期しかなかったためだ。

「戦時中に産声を上げた国連は、過去の戦争の悲惨さを嘆く場でも、将来の理想の平和を語る場でもありません。国連の使命は、いま、そこにある紛争に、現実の政治的制約の中で対処することです」

   国連の本質を、川端氏はそう説明する。興味深いのは、第1次、第2次大戦のいずれにおいても、米国の指導者が戦時中に、「国際機構」を提案していることだ。米国は、議会の抵抗もあって国際連盟には参加しなかったが、世界でも有数の大国として台頭した米国が、なぜ、自らの手を縛りかねない国際機構にこだわったのか。そこには、国際機構に対する米国の「二面性」がある、と川端さんは言う。

「私はよく、『アメリカほど国連が大好きな国はない。そしてアメリカほど、国連が嫌いな国もない』と言います。アメリカのような大国が、自ら主導しなければ、独自の財源や武力を持たない国際機構は非力です。しかし、大国は、自らの主権を制限するような国際機構の規制には反発する。戦後のアメリカは、振り子のように、その二つの極を行ったり来たりしてきました」

   20世紀前半の米国は、孤立主義と国際協調主義の間を揺れ動き、真珠湾を攻撃されたことで太平洋戦争にコミットして以降は、戦後の国際機構づくりを主導した。それは決して偶然ではない、と川端さんはいう。

「移民国家で、民主政治の土台があり、しかも英仏のように、過去の歴史のしがらみもなかった。歴史の浅い国だからこそ、国際機構を提案できた。しかも、戦時中から戦後の秩序を構想しなければ、こうした国際機構はできないことに気づいていた」

   もちろん、冷戦期には国連安保理も機能しなかった。東西陣営は、自らが関与する紛争について、常任理事国に与えられた拒否権を行使して、加盟国を拘束する決議案を葬ってきたからだ。ベトナム戦争においても、旧ソ連によるアフガニスタン侵攻においても、国連安保理は沈黙するしかなかった。

   機能不全に陥った安保理を補ったのは、国連憲章に根拠を持たない、丸腰の軍人による即興の平和維持活動であった。活動の最初の例は、1948年の第1次中東戦争後の停戦監視のために結成された国連休戦監視機構(UNTSO)だ。このような活動は、地域紛争が米ソ直接対決にエスカレートすることを恐れる国際社会の支持を得て、様々な紛争地で活用されるようになり、後に一括して国連平和維持活動(PKO)と呼ばれるようになった。スエズ危機が1956年に勃発すると、国連総会は「平和のための結集決議」の手続きに従って緊急総会を招集して、数千人の軽武装の兵員を含む本格的なPK0である第一次国連緊急軍(UNEFI)を派遣した。その後もPKOは地域紛争の拡大防止に実績を重ね、冷戦後は文字通り、国連による紛争抑止、拡大防止の強力な手段になった。

   だが米国は、米軍が他国の指揮系統に置かれることを嫌ってPKOには参加せず、距離を置いてきた。父親のブッシュ政権は90年の湾岸危機で国連安保理を最大限に利用し、翌年の第1次湾岸戦争でイラクをクエートから撤退させた。しかし、93年のソマリア紛争の介入に失敗して以降、米国は国連とは距離を置き、自らの指揮のもとに有志を結集する「多国籍軍」による介入に傾いていく。

   息子のブッシュ政権によるアフガニスタン戦争、イラク戦争はその最たるもので、後者においては国連安保理、北大西洋条約機構(NATO)の支持もないまま武力行使に踏み切った。

   今のトランプ政権は、「アメリカ・ファースト」を唱え、明らかに国際協調と距離を置いて、2国間交渉で緊密な関係を築いた国とのみ協力する傾向を強めている。だが、川端さんは、米国の政治学者ジョン・アイケンベリーの著書「戦後構築の論理と行動」などを引きながら、アメリカが国際機構を使った場合と使わなかった場合を比較すると、明らかに前者の事例の方が時間と労力を要するものの、結果としてうまくいく場合が多い、と指摘する。

「同じことをやるとしても、単独で行動するより国際機構を使う方が、正統性があり、他国を説得し、協力を仰ぐこともできる。米国の力が相対的に弱まれば弱まるほど、国際協調路線を取る方が国益にかなう、と思う」
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