2024年 4月 25日 (木)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(26) 作家・村木嵐さんと考える「学問の自由」

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戦時下の抵抗

   1941年12月8日、日本は英領マレー半島、ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった。南原はこの月から国家学会雑誌に「ナチス世界観と宗教の問題」を発表し、翌年にかけて執筆を続け、「国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究」(岩波書店)として出版した。これが論文において寡作だった南原初の単著となった。ナチスと枢軸同盟を結んでいた日本で、ナチズムを正面から論じることは、かなりのリスクを伴う行為だ。

   小説「夏の坂道」で著者は、この執筆の狙いを、南原と母・きくとの会話の形で描いている。

「ナチズムはヨーロッパの伝統であるキリスト教とギリシャ精神を拒否しています。だから今という時代の危機を、近代精神の結果だと言って否定することしかできんのです」

   危機はどんな時代にもある。だがナチスの世界観は、それを個人主義や合理主義のせいにしている。

「ナチはゲルマン人種にしか価値がないと言っているのでしたね」
「ええ。だからゲルマンの血の崇高さを神話にでもして、世界観を立ち上げるほかありません」

   それはヨーロッパ文化という理性的なものから、ナチズムという非理性的なものへ、言い換えれば精神的なものから野獣的なものへ、全てを強引に帰結させようとしている。

   この描写で分かるように、南原の念頭にあったのは、同じ急坂を転げつつあった日本と、その危機への警告だった。刊行後、蓑田胸喜は待っていましたとばかり論難したが、本では国体に直接触れておらず、論理の土俵で足を引っ張ることはできずに終わった。

   だが学内では早くも41年から大学の修業年限が3か月短縮され、翌年には6か月短縮、そして戦局が悪化した43年には学徒出陣で、南原は学生たちを戦地に送る立場になった。安田講堂で東大の壮行会が行われた日の情景を、「夏の坂道」は次のように描いている。

   安田講堂で東大の壮行会があった時は、南原は耳をふさいで研究室に閉じこもっていた。

   たとえ日本がファシズムに堕ちていても、抗いはするが、国家に背けと説くことはできない。誰より全体主義を憎んでも、それを民族全体が良しとするなら、南原はその罪を共有するしかない。動員される学生たちに、自らの良心に従って行動せよと言うことはできないのだ。

   壮行会が終わると学生たちは隊列を組んで宮城へ行進して行った。南原は銀杏並木の陰から見送ったが、息をするのさえ苦しかった。正義の勝利を信じ、敵である連合国側に未来を託している自分は何者だろうと思った。

   1944年7月には、弟子の丸山真男が召集され、松本の連隊で教育を受けた後、朝鮮半島の平壌に向かった。法学部教官で召集されたのは丸山だけだった。しかも東洋思想史講座ではただ一人のスタッフだ。丸山は栄養失調で入院したが11月に部隊が召集解除になった。だが翌年3月には2度目の召集を受け、広島県宇品の船舶司令部参謀部に一等兵として赴くことになる。

   ちょうどそのころ、南原は法学部長を引き受ける決心をした。3月10日の東京大空襲の前日のことだ。彼は戦争を憂える研究者を糾合して法学部で終戦工作に乗り出すべきだと考えていた。加わったのは南原と、高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄だった。彼らは大学の中央図書館で構想の骨格を練り、誰に働きかけるかを話し合った。南原は高木らと近衛文麿、若槻礼次郎、東郷茂徳、木戸幸一、宇垣一成らと会い、終戦の時期や条件、米国への連絡の取り方等について進言し、働きかけた。

   その間に、南原は学部長として図書の疎開に取り組み、東大を帝都防衛の司令部に接収するという軍部の申し出をはねのける内田祥三総長を支えた。

   八月十五日、終戦。9月1日発行の帝国大学新聞に南原は「戦後における大学の使命 復員学徒に告ぐ」という文章を寄せた。

「軍人が剣を棄てた時、われら学徒の真の戦が開始されるのである」

   12月の全学選挙で南原は総長に選出され、かつて大学を追われた人々を呼び戻し、憲法研究、教育改革の中心人物として、戦後の礎を据えることになる。

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