2024年 4月 19日 (金)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(37)日本はなぜIT化に遅れてしまったのか 服部桂さんと考える

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服部桂氏に聞く電話と通信の現場

   日本はなぜIT開発で立ち遅れたのか。これまで振り返ってきた21世紀の日本の歩みを念頭に3月30日、東京在住のジャーナリスト服部桂さんにZOOMで話をうかがった。

   服部さんの経歴は異色といっていい。その履歴はコンピューター、ITの興隆期に重なっており、取材と実務の両面で最先端の歩みを見守ってきたからだ。

   1951年、脳外科医の長男として愛媛に生まれ東京で育った。たぶん、開業医を継ぐという定めに縛られたくなかったのだろう、早稲田大学理工学部に進んだ。映画や音楽が好きで、学部時代は紀伊国屋のポスター販売や建築現場や飲食店など10指を超えるバイトをしながら金を貯め、1年近く欧州を回った。

   学部の卒論は「上代日本語の音韻研究」。万葉集など上代日本語では、i、e、oの各母音が2種ずつ使い分けられ、1子音につき計8種類の音節があったと言われる。それがなぜ、現代の5母音となったのか。3種はどのような機能を果たし、なぜ消えたのか。万葉集をコンピューターで解析し、統計言語学でその謎に迫る研究だった。

   当時は石油ショックで就職口も限られ、そのまま大学院の理工学電子工学に進み、「楽音を線形予測法で解く」というテーマで修士論文を書いた。当時はコンピューターそのものよりも、音楽や言語をコンピューターに認識させ、理解させられるか、という点に関心があった。これは、いずれ人工知能(AI)のフロンティアとして脚光を浴びるテーマだった。

   服部さんは1978年に朝日新聞に入社。当時新聞業界は、脱活字とコンピューターによる製版化への技術革新を急いでおり、朝日も有楽町から築地に本社を移転するのに合わせてNELSONというシステムを全面的に採用することになっていた。服部さんは、当時の連絡部で活版からネルソン・システムへの移行をバックアップすると同時に、IBMの当時のメインフレームSystem370で、新聞記事のデータベース化や選挙用のプログラムを書く仕事もした。また、モスクワ五輪取材に向け、ソニーと電子カメラを開発するプロジェクトにも加わった。アナログ方式のフロッピー型ディスクを記憶媒体として使い、のちに「デジタルマビカ」として販売されるカメラの前身だ。

   80年代初頭は、「ニューメディア」という言葉がマスコミで喧伝された時代だった。これはNTTが目指すINS(高度情報通信システム)に代表されるデジタルの「高速ネットワーク」に職場や家庭の端末を接続し、現在のインターネットのような情報のやりとりや、新聞やテレビ、ラジオなど既存のマスコミに取って代わるニュースメディアを可能にするという未来像だった。

   当時は通信の自由化が叫ばれていた。82年に第2次臨時行政調査会、いわゆる土光臨調は、国鉄や日本専売公社と共に、日本電電公社の分割・民営化を答申し、通信業界では再編の動きが加速した。その動きに即応しようと、朝日もこの年、社内にニューメディア本部を立ち上げ、服部さんもそこに配属された。

   日本ではのちに大分県知事になる平松守彦氏ら、通産省電子工業課が中心になって、国内のコンピューター産業を育成しようとしてきた。だが富士通や日立などのメーカーは「電電ファミリー」と呼ばれ、実際の主なユーザーは日本電電公社。もし電電が民営化されたら、国内で電電に太刀打ちできる民間企業は考えられない。そこで、日本経団連は、電電が分割・民営化された場合に、その受け皿となって公正な競争を確保できるよう、民間企業を育成する必要に迫られた。

   そこで業界が目をつけたのは、アメリカ最大手の電話・通信業者AT&Tだった。グラハム・ベルが興した巨大コングリマリットのAT&Tは、それまで傘下にあった地域電話部門を八つの会社に分割・分離し、長距離電話部門だけを残して、電気通信事業に特化し、海外にも進出しようとしていた。つまり、コンピューターと通信の融合が、将来のフロンティアになると考えた。

   AT&Tの日本進出の受け皿を作れば、電電民営化後の対抗馬となり、しかもそのころ熾烈化しつつあった日米貿易摩擦も回避できるだろう。そうした思惑もあって、経団連ではまず情報通信研究会を作り、その後に日本興業銀行、三井物産が幹事社となって、コンソーシアムを組むことになった。そうして1984年に設立されたのが、JENS(Japan Enhanced System)だった。JENSは、AT&Tが分割された2年後の86年にAT&Tと日本のコンソーシアム参加社によって株式会社になった。

   服部さんは朝日のニューメディア本部からJENSに出向し、コンピューターと通信が融合する最前線を目撃することになった。当初、日本側が注目したのは、AT&Tが開発したNET1000というシステムだった。これは付加価値通信(VAN)のシステムだが、日本のように多機種のコンピューターをつなぐシステムとして、NTTが目指すINSに十分対抗できるのではないか、と目された。

   だが、AT&Tは、結局NET1000の開発を86年に突然断念する。業界では、すでにコンピューターが小型化され、パソコンによって分散処理する通信ネットワークの時代へと向かいつつあった。服部さんはその後、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの客員研究員になり、さらにコンピューターを生み出したアメリカの風土を現地で肌に感じるようになった。

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