2024年 4月 19日 (金)

「面白いマンガが読みたい」一心で歩んだ38年 プロ作家も多数輩出「コミティア」の歴史とこれから

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   過去最大の規模に成長しているといわれる日本のマンガ市場。出版科学研究所の調べによれば、推定販売額は2021年には紙と電子あわせて6759億円に到達した。

   そんなマンガ界の盛り上がりに貢献してきたイベントの1つが創作同人誌即売会「COMITIA(コミティア)」だ。オリジナル作品を売買できるイベントで、参加をきっかけに商業デビューした作家は枚挙にいとまがない。新型コロナウイルス感染症の拡大によって存続の危機に瀕した際には、ファンや出版社などから1億円を超える支援が寄せられた。

   「面白いマンガが読みたい」――コミティア実行委員会の中村公彦(なかむら きみひこ)さんは、その一心でイベントを続けてきたと振り返る。コミティアを続けるため、務めていた雑誌の編集長を退任した。コロナ禍で存続の危機に直面した際は、会社を失い個人となろうともコミティアは続けようと模索したという。

   J-CASTニュース編集部は、中村さんにコミティアのこれまでの歩みと今後への意気込みを取材した。

(聞き手・構成/J-CASTニュース編集部 瀧川響子)

  • コミティア実行委員会の中村公彦さん
    コミティア実行委員会の中村公彦さん
  • コミティア実行委員会の中村公彦さん

昔の同人誌は「オリジナル」が多かった!

   コミティアは1984年から続く同人誌即売会で、作家はプロ・アマチュア問わず自らの手で作り上げた本を対面で販売することができる。会場は、日本最大級の同人誌即売会「コミックマーケット」と同じ東京ビッグサイト。一般的な同人誌即売会はパロディやファンアートなど既存のキャラクターを用いた「二次創作」作品を取り扱うことが多いが、コミティアはオリジナル作品「創作」に限定している。

   中村さんはコミティアの設立に関わり、1985年から2022年11月まで、37年間コミティア実行委員会の代表を務めた。代表を退いてからは、会長としてコミティアを支えている。

――コミティアはなぜ、オリジナル作品に限定したのでしょうか。

中村公彦さん(以下同)「同人誌即売会が生まれる以前の同人誌といえば、『学漫』と呼ばれる大学のマンガ研究会が発行するなどオリジナル作品が中心でした。つまり二次創作はほとんどなかった。
同人誌を販売するイベント『同人誌即売会』は1975年のコミックマーケットから始まりました。当時は昭和24年生まれの作家ら『花の24年組』によって少女マンガが大人気で、コミックマーケット準備会の母体となった評論サークル『迷宮』はそのパロディ本を出して、その後の同人誌に大きな影響を与えます。同時期にアニメ『宇宙戦艦ヤマト』のパロディブームもあり、コミックマーケットは二次創作と共に拡大します。
一方で二次創作を受け入れる先発があったため、私たちがそれをやる必要はないと考えました」

――コミティア設立のねらいはどのようなものだったのでしょうか?

「コミックマーケットが二次創作中心になっていった時に、設立当初のオリジナル同人誌の振興を目的にしたものではなくなった、と運営を抜けた一部の人たちが、新たに創作オンリーの同人誌即売会『MGM(Manga Gallery & Market)』を立ち上げました。私は10代の終わりからそこに通いつめて、全国から集まる面白い作家たちのオリジナル同人誌に夢中になりました。そのころのMGMには前夜合宿があって、上京してきた作家たちが集ってその場でリレー形式の合作マンガを描き上げ、翌日のイベントでコピー本にして1冊100円で販売するなど、ライブ感も面白かった。そんな作家同士の交流や刺激しあう様子と、そこから生まれてくる魅力的な作品を間近で見て、こういう世界に憧れを持ちました。そんな時に同世代の仲間たちに誘われて、新しい創作オンリーの同人誌即売会となるコミティアを立ち上げたんです」

――代表を退任する際のあいさつでは「何らかの新しい創作マンガの流通システムを生み出し、定着させなければ意味がないと考えていた」と振り返られていましたね。

「1984年の設立当時は商業誌のマンガも右肩上がりの時代でしたし、コミックマーケットを中心とする二次創作文化も成長期でした。同人誌専門の印刷所もでき、いろいろなインフラが整いはじめたころです。一方で私たちはオリジナル同人誌作品の面白さには絶対の自信があり、ここにマンガの新しい可能性があると確信していました。
そのためにも大量生産大量消費の商業誌のマンガに対して、多品種小ロットで成立する同人誌マーケットの特性を生かした新しい流通システムが必要だと考えました。そこからは様々な試行錯誤を積み重ねて現在のコミティアの形となっています。 同人誌即売会の何よりの魅力は作家と読者、あるいは作家同士の、リアルの出会いの面白さと刺激です。その核の部分を大切にしながら、時代に即してアップデートしつつ、コミティアの試行錯誤はまだまだ続くと思います」

コミティアのために「ぱふ編集長」を退任

――中村さん自身は、商業マンガやパロディに関心はなかったのでしょうか?

「コミティアを始めたころは、まだマンガ情報雑誌『ぱふ』の編集部員をしていました。その仕事では商業誌のマンガもめちゃくちゃ読んでいたし、パロディの感覚に近い、マンガやキャラクターで遊ぶような記事を仕事で書いたりしていました。それで満足していたので同人のほうでもやろうとは考えませんでしたね」

「ぱふ」は雑草社によるマンガ情報雑誌で、2011年8月26日に37年の歴史に幕を下ろした。マンガ家へのインタビューやマンガ批評、コラムなどを取り扱った。

――中村さんは1988年から93年まで『ぱふ』の編集長を務められ、コミティア運営のために退職したと聞きます。どういう経緯でコミティア設立に参画し、仕事を辞めたのでしょうか?

「『ぱふ』の同人紹介コーナーを担当した縁で、初代共同代表の土屋真志さんと熊田昌弘さんと知り合いました。私は雑誌『ぱふ』の編集、また一個人の興味からコミティアの設立に協力した形です。ところが初代代表が就職からの地方赴任で物理的に続けられなくなり、第3回から私が代表を引き継ぎました。
最初は『ぱふ』の仕事とイベント運営を並行して続けていたのですが、コミティアの規模も拡大し、どうにも両立が出来なくなったんです。そこで『ぱふ』の編集長を後任に譲り、コミティアを本業にすることにしました。経済的な不安がなかったわけではありませんが、ここはもう踏み切るしかありませんでした」

――中村さんは当時、コミティアの何に惹かれていたのでしょうか。

「イベントからどんどん新しい作家や作品が出てくる面白さですね。面白ければ当然そこからプロになる作家も現れたし、雑誌掲載を経ずに同人誌がそのまま商業単行本化されるケースも出てきました。
マンガ『超人ロック』の作者・聖悠紀さんらが所属していたサークル『作画グループ』代表のばばよしあきさんとお話した時に、『創作にプロもアマもない』という言葉を聞いて、まさにその通りと思いました。商業誌・同人誌という発表媒体に拠らず、作品はそのもの自体に価値があるんです。コミティアは、そのように作品がきちんと読まれ、評価される場所でありたいと思っています」

――中村さんはコミティアに出品された本をすべて読まれていますよね。

「いまは段ボール20箱分くらい見本誌が集まります。色々なジャンルがあり、全部と言うと少し大げさなのですが、マンガやイラストの本は全て読みます。でもそれが楽しみでコミティアをやっているんです」

コミティアが「マンガ家の登竜門」に

――コミティアには多くの出版社が持ち込みを受け付ける「出張マンガ編集部」が設けられています。ここからデビューする作家もいるそうですが、どんなねらいで導入したのでしょうか?作家さんから要望があったのでしょうか?

「出張マンガ編集部の企画を始めたのは2003年からですから、20年近く前になりますね。作家さんからの要望という訳ではなく、私としては、同人と商業の間の垣根を下げたい、という意図で始めました。
当時の同人作家は商業誌に対して、自分の好きなものを描かせてもらえないんじゃないか、編集者は厳しくて怖い、というイメージを持たれていました。私は『ぱふ』の仕事で彼らと接点があったので苦手意識はありませんでしたが、確かに私から見てもキャリアの浅い作家さんに対して高圧的な態度をとる編集さんがいたのは事実です。しかし情熱をもって良いマンガを作ろうとする編集さんもたくさんいたので、コミティアは商業誌の編集者とは良い関係を築きたいと考えていました。
先に言ったように、作品が同人誌に発表されても、商業誌に発表されても、その価値が変わるわけではありません。ただ、良い作品はなるべく多くの人に読まれて欲しい。だから、オリジナルの作品を描く同人作家には、商業誌の選択肢もあることを意識して欲しかったんです。出張マンガ編集部はそういう可能性があることを可視化する目的もありました」

――出版社が訪れることを恐れる参加者はいませんでしたか?

「最初は少し抵抗もあったと思いますが、歓迎する声のほうが圧倒的でした。二次創作の場合は著作者・権利者に見られたくない人もいたと思うけれど、コミティアはオリジナル作品に限定しているので、比較的問題なく受け入れられました。『出版社が出張する形で自分たちの作品を見に来てくれる』ということで、持ち込みにハードルを高く感じていた作家も気軽に挑戦しやすくなりました。
また出版社からしても持ち込みが減りはじめた時期だったので、双方の需要がマッチして今の形になりました」

――中村さんを突き動かすのは、「プロ・アマ問わず面白いマンガを読みたい」「面白いマンガを何らかの形で世に広めたい」という気持ちなんですね。

「そうですね。だから2014年に30周年記念で『コミティア30thクロニクル』を出版できたことは、自分としてもマンガ界に一つの功績を残せたと思っています。コミティアの30年の歴史の中で発表された作品の中から、短編を中心に厳選しアンソロジーの形で書籍化したものです。ある書店員さんは『載っている作品が全部面白いのはすごい』と感心してくれました。本を売るプロの評価として嬉しかったです。こういう言い方は変ですが、同人作品が商業作品に対して、質の点ではけして引けを取らないことを証明できたと思います」

――今や「マンガ家の登竜門」と呼ばれるコミティアですが、プロを目指しているわけでもなく、マンガを描き始めたばかりのような初心者で、自身のマンガが「面白い」のかもわからない。そんな自信のない作家も参加して良いのでしょうか?

「もちろん遠慮なく参加してほしいです。初心者でも大ベテランでも平等に机を並べて作品を発表できるのが同人誌即売会の何よりの良さです。
作家さんも作品を発表するときは毎回ドキドキですよね、自分では自信があっても読者にどう評価されるかわからない。でもコミティアを続けて分かったことは、とにかく作家さんは一作ずつ完結させた作品を描き続けないと成長しないんです。だから描きながら自信が無いときも、ままずは形にして人に見せることが大事です。
売れる売れないは次の段階。もし読者の反応が良くなければ次の作品に生かせばいい。創作活動は一作ずつ切り取って考えるのではなく、描き続けながら成長することが目的です。
ただ作家さんにはその時その時で描きたいものがあるでしょうし、それが無い時は休んでも構わないと思います。しばらく離れてまた描きたいことが自分の中に生まれたら戻ってくればいいんです。
コミティアはこれからもずっと続きます。作家の皆さんには、作品を通して交流ができる場所、成長できる場所を維持することを約束します。だから安心して今描きたい作品を描いて、本にして持ってきてください」

――「コミティアに参加すると漫画を描きたくなる」と多くの参加者から言われています。

「それはサークルアンケートでもよく書かれることですね。一つの広い空間に、何千人という作家が集い、それぞれが自分の作品を持ち寄って発表している。彼らは仲間でもありライバルでもある。これは初期にスタッフの仲間だったマンガ家の山川直人さんの言葉ですが、『マンガ描きが一番にやる気になるのは、人に何か言われた言葉よりも、仲間が面白いマンガを描いたときに何より負けられないと思うんだ』と言われたことがありました。ああ、コミティアはそういう場所になればいいんだな、と考えて、これまで続けてきました」

未曽有の危機を迎えたコロナ禍

――新型コロナウイルス感染症によって多くの同人誌即売会が存続を危ぶまれる状況となりました。コミティアにはどのような影響を与えましたか?

「もちろん経営的なダメージも大きかったですが、コロナ禍をきっかけにマンガを描けなくなった作家のことも心配でした。同人誌即売会は1つの締め切りの役割を果たしていましたが、緊急事態宣言などが出ると、不要不急なものとして開催中止が続いてしまった。そうなると作家さんたちのモチベーションもあがりません。この時期に同人活動を止めて、オンラインに移行した人も多かったと思います。そのためにも中止になった日程にツイッターのハッシュタグによる『エアコミティア』を開催したり、可能な限りのフォローを行いました。
コロナ禍も3年目に入り、最近はやっと人が戻り始めています。いわゆる巣ごもり需要で新しく描き始めた人が増えてきました。一方で、会場では『3年ぶりの参加です』という声を聞くなど、かつての参加者が戻りつつある気配も感じます」

――これほどの危機はコミティアにとって初めてだったのでしょうか。

「そうですね、コロナ禍が始まった2020年当初は先の見通しがたたず、絶望的な気持ちでいました。コミティア実行委員会はボランティア組織で運営されていますが、イベントが大規模化したことにより法人化が必要になり、事務所を構えて数人の社員もいます。そうした会社としての機能部分を放棄せざるえない可能性がありました。それでも個人レベルでどうにか継続できないかを模索しましたが、それまでの形を維持するのは不可能だったと思います」

――コミティアは20年8月から10月にかけクラウドファンディングを実施しました。目標額3000万円に対し、1万1980人から1億4791万1500円の支援がありましたが、これによって存続の危機は脱したのでしょうか。

「クラウドファンディングの想像を超えるたくさんの支援には感謝しかありません。それと同時に『この人たちの期待と信頼を裏切れない』という責任も強く感じました。今はもう創作活動を止めてしまった人たちからも、次の世代のためにこの場所を残してほしいから故郷を守る気持ちで支援します、という言葉をいただきました。そうした温かいメッセージが何千通も寄せられ、読んでいて涙が出ました。出版社や電子配信の会社の方からも大きな支援をいただき、マンガ業界全体のためにもコミティアを続けなければいけないとあらためて自覚しました。
とはいえ、コロナ禍は長期化しているので。危機を脱したと言えるかは難しいです。開催だけで自立できる収益にまで戻すには、もうひと頑張りという状況です。それでもようやくそう言えるようになりましたし、クラウドファンディングの収益が助けになってこの3年を乗り切れたことは間違いありません」

「コミティアは、人生でした」

――コミティアを続けて印象深かった出来事はありますか?

「2014年に文化庁メディア芸術祭の功労賞を受賞したことでしょうか。中村公彦個人が受賞者とはなっていますが、私としては受賞対象はコミティアであり、自分はその主催者として代わりに受け取ったという認識です。
またこの賞を初めて同人誌の世界の人間が受賞したことも、同人文化が評価されたようで嬉しいものがありました。受賞の御祝いの席で、功労賞受賞の先輩であり、私がもっとも尊敬する編集者の先達である栗原良幸さん(元『コミックモーニング』創刊編集長)に、『コミティアの30年は通過点。50年、100年を目指すべき』と言われたことは強く心に刻まれて、今回の代表交代を決意するきっかけになりました」

――中村さんは2022年11月27日開催の「COMITIA142」をもって、代表を退任し、会長に就任しました。なぜ今、コミティア代表を引退されたのでしょうか?

「やはり自分の年齢の問題があります。私は現在61歳で、当初の考えでは2020年に東京オリンピックが終わったら退任の準備を始めるつもりでいたのですが、その予定が全部コロナ禍で吹っ飛んでしまいました。
同時に痛感したのが、こうした非常事態を乗り切るには若い世代にバトンタッチした方が良いということです。様々な判断に即応性が求められますし、時代に合わせて運営のやり方もアップデートしてゆかねばなりません。
新代表には、これまでのやり方にこだわる必要はないと伝えています。むしろこんなに苦しい時期によく引き継いでくれたことを感謝しています」

――代表を引退し、環境や心境に変化はありましたか?

「代表を引き継いでも、前回のコミティアのアフターレポートを書いたり、引継ぎも残っていて、そうした代表仕事の後片付けが終わらないと区切りがつかないですね。生活が変わるのはもうちょっと先かなと思います。
でも前回の閉会後、スタッフ内部で代表交代のセレモニーがあり、スタッフのみんなが代表を退任する私へのお疲れ様メッセージを集めた同人誌を作って贈ってくれたんです。いろいろな思い出が書いてあって、それを読んだときには流石に、『ああこれで自分の代表の役割は終わるんだな』と実感しました。同人誌は薄い本とは言われるものの、文字びっしりで20ページくらいあったので(笑)」

――今後「会長」としては、どんなことに取り組んでいきますか?

「対外的な折衝・発信や地方コミティアとの連携を担っていきます。特にコロナ禍から、会場利用の問題で自治体や政治家の方々と交渉するなど、政治的な動きをする必要が増えてきました。イベントの運営と対外交渉、両方に対応するのはかなりきつかったので、今後は新代表との役割分担で、その部分を私が担うことになります。
あとは昔からやりたかったことで、マンガを教える大学が増えているのでうまくタイアップできたらと考えています。現在も年1回ペースで神戸芸術工科大学と東京工芸大学で、コミティアや同人誌のことを紹介する講義をさせてもらっています。 大学在学中に商業デビューできる作家はごく一部ですよね。でもデビューできずに卒業した後もマンガを描き続けて欲しいし、社会人経験をしてから伸びる作家もいるでしょう。そういう学生の皆さんにコミティアという作品発表の場があり、多くの仲間がいることを知ってもらいたいんです。もちろんウェブで発表する手段もありますが、リアルに人の反応が見れて、作家同士が直接出会えるコミティアの魅力を伝えたい。
コミティアは、作家が長いスパンで描き続けられ、そのなかで自分も成長していく場所だと考えています。そうした生涯学習的な部分が教育現場とうまくマッチングできないかと前々から考えていて、やっとそうした部分に注力できる時間が取れるかなと思います」

――最後に、中村さんにとって「コミティア」とは?

「うーん、自分にとっては人生そのものでした。生きてきた過半数をコミティア代表として過ごし、自分よりもコミティアのことを大事にしてこれまでやってきました。周囲の人々、とくにボランティアスタッフたちは、それを見ているから私のことを信頼してくれたのかなと思います。
そんな仲間たちと築いてきた大切なコミティアが『いつもここにあります』と言い続けるために代表を交代しました。これからも時代に合わせて変化を恐れず、けれど作家と作品を大事にする姿勢を失わず、参加者にとって創作の原点のような居場所であり続けてほしいです」
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