1923年4月19日生まれ裏千家の前15代家元で、茶道家として初めて文化勲章を受章した裏千家大宗匠・千玄室(せん・げんしつ)さんが2025年8月14日、死去していたことが明らかになった。102歳だった。特攻隊の生き残りで、茶の精神を世界に伝えることで、平和への思いを広げることに力を尽くした。日本・国連ユネスコ親善大使など多数の公職や名誉職があり、「文化大使」としても活躍した。姉は冠婚葬祭評論家の故・塩月弥栄子さん。長男で16代家元・千宗室さんの妻は、三笠宮崇仁親王の第二女子容子内親王。「水戸黄門」の西村晃さんと特攻隊の同期1923年、裏千家14代家元の長男として京都で生まれる。43年、同志社大2年のとき学徒出陣で海軍に。45年、特別攻撃隊(通称・特攻隊)に入り、訓練を続けたが、終戦で除隊。同志社大卒業後、京都・大徳寺で修行得度、さらにハワイ大学などで学ぶ。64年に15代家元になり、千宗室を襲名。2002年、家元を長男に譲り、千玄室に。特攻隊では、日大芸術科の学生で、のちに水戸黄門役で人気になった俳優の西村晃さんと同期だった。千さんは出撃直前に配属替えになり、西村さんは出撃機が故障して不時着、ともに生き残った。1997年、西村さんが亡くなった時は「分身をなくしたようだ」と悼んだ。伝統文化の継承や茶道の国際化に尽力したことなどから、89年に文化功労者、97年には文化勲章を受章した。フランス・レジオンドヌール勲章オフィシエ章など海外での受章も多い。茶を通じて日中韓の交流を深める「東アジア茶文化シンポジウム」を呼びかけ、日韓の国宝「半跏思惟像」を2016年に初めて同時展示したときは、実行委員会の委員長を務めた。世界のいくつもの大学に日本文化や茶道の講座を開設して自分でも教え、ハワイ大歴史学部教授なども務めた。『「茶経」と我が国茶道の歴史的意義』(淡交社1983)など多数の著書がある。「利休さんが私に色々なことをさせている」戦争は千さんの人生を大きく変えた。「千家の坊ちゃん」が「特攻隊員」に。死を覚悟したが、敗戦。「何のために仲間は死んだのか」――怒りと、忸怩たる思い。復員して京都の家に着いた時、「負けました」と門の前に軍刀を置いて土下座した。ほどなく家に駐留軍の将校らが来るようになる。「本当の日本を学びたい」というのだ。父の14代宗室は英語が達者で、彼らに茶を教えた。茶室には丸腰で、腰をかがめて頭を低くしないと入れない。いったん中に入ると、武士や町民、進駐軍や敗戦国民の区別もない。茶道の人間平等、和の精神を世界に伝えていくことが生き残った自分の使命だと自覚する。84年にはバチカンでローマ法王ヨハネ・パウロ二世に謁見し、大聖堂で献茶した。2000年に国連総会の会場わきで平和祈念のお茶会をした時は、韓国と北朝鮮の代表団がそろって訪れ、出席者から一斉に拍手が沸き起こった。長身でハリウッドスター並みの端正な容姿。ざっくばらんな人柄もあって、交友関係が広く、文化・国際交流関係だけでなく、ロータリー日本財団会長、日本馬術連盟会長など100以上の様々な公職や名誉職を引き受けていた。海軍入隊の前日、父から、千利休が切腹に使った脇差を見せられた。理由が分からなかったが、のちに「無駄死にするな。けっして自分から進んで逝くな」という無言のメッセージだと悟った。一度死んだはずの人生。「おそらく、利休さんが私に色々なことをさせているのだと思っています」(自著『茶のこころを世界へ』PHP)と語っていた。
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