2025年11月1日、山手線は環状運転100周年を迎えた。もともと品川から池袋を経由し、赤羽へ向かう貨物中心の路線だったものが、東京の発展にともなって、旅客輸送が中心になり、電車による高頻度環状運転が行われるようになってから100年もの月日がたった。現在では、JR東日本の山手線とその内側はJR東日本のドル箱路線であり、巨大都市・東京を支える最重要の交通機関として多くの人の輸送に貢献している。当初は本数が少なく、しばらくしてから少しずつ旅客輸送が増え、「の」の字の形の運転になり、1925年11月に上野駅と神田駅が結ばれて環状運転になったという話は、多くの人が知っているだろうからここではしない。私鉄が山手線各駅をターミナルにした環状運転による東京各エリアへのアクセス性の高さは、そこから枝のように伸びる路線が増えていくきっかけともなった。1923年9月1日に関東大震災があり、それをきっかけに都心部から住宅の移転が始まり、東京で生活する人は職住近接の生活から、職住分離の生活へとライフスタイルを変えることになった。その前後から、私鉄各路線は山手線内の駅をターミナルにするようになり、東京の各方面に路線をのばしていった。とくに東京の西側は、現在の京急電鉄・東急電鉄・小田急電鉄・京王電鉄・西武鉄道と、主要私鉄が路線網を伸ばしたこともあり、山手線の駅が都心と郊外との境界駅であるような位置づけとなった。山手線の内側とその周辺(日本橋や銀座など)が都心であり、職場があり商業施設がある地域として扱われるようになった。いっぽう、山手線の外側は人々が暮らすところと、東京圏の中でも機能が分かれていった。むろん、現在でも港区や新宿区、文京区などに住宅地はある。だが住宅地と商業地は隣接していても、混在しているところは少ない。そして山手線内の住宅地は地価が高く、不動産は簡単に購入できない。低層住宅地の一戸建てならなおさらだ。関東大震災以降は、都心部よりも郊外での快適な暮らしを望む傾向が強まり、山手線の各駅がターミナルになる。山手線の各駅までやってきて、その駅で山手線や路面電車、のちに地下鉄に乗り換えるという移動のしかたが基本になった。山手線の内側は中央線もしくは路面電車・地下鉄で、郊外が私鉄や国鉄(のちのJR)というパターンが決まっていった。都心の交通と郊外の交通で手段を分けるというのが、戦前の東京の「決めごと」であった。都心に進出したがる私鉄、その解決策は?戦前から私鉄は都心に向けて路線を伸ばす計画を立てていた。東急池上線が地上の高い位置にホームを設けているのは、都心への延伸を計画していたためだということはよく言われる。だが東京の行政はその計画をなかなか認めず、都心は路面電車が基本となり、地下鉄を増やしていく方針を立てた。戦前には地下鉄は現在の銀座線だけだったが、戦時下で営団地下鉄が発足し、戦後には丸ノ内線を走らせる。この2路線は、第三軌条方式でほかの路線と相互乗り入れしないものとして作られていた。いっぽうでターミナル駅の混雑は激化していく。車両基地などは都心には作れないという問題も出てきた。私鉄を山手線内に延伸させるわけにはいかない。そこで地下鉄と私鉄・国鉄を相互乗り入れさせることになった。架線に電気を流し、パンタグラフで集電するという地上の鉄道と同じものを走らせることにしたのだ。営団地下鉄のほかにも都が自前で地下鉄を走らせるようにした。私鉄の都心進出の考えと、路面電車の代替交通手段の必要性という2つの条件が一致し、郊外鉄道と地下鉄の相互乗り入れということになった。その指標として、環状線としての山手線というものが採用されたと考えるのが妥当なところだろう。もちろん、山手線の外側を結構な距離走っている地下鉄もある。たとえば東京メトロ有楽町線がそうだ。しかし都営新宿線は新宿できっちり京王電鉄に直通するようにしたり、東京メトロ半蔵門線や副都心線は渋谷できっちりと東急電鉄と接続したりと、「枠組みとしての山手線」はいまなお生きているのである。そして、山手線の内側やその周辺と、そこから離れた地域では違いが大きいのである。東京の形をつくったのは、山手線の環状運転といえるのだ。(小林拓矢)筆者プロフィールこばやし・たくや/1979年山梨県甲府市生まれ。鉄道などを中心にフリーライターとして執筆活動を行っている。著書『京急 最新の凄い話』(KAWADE夢文庫)、『関東の私鉄沿線格差』(KAWADE夢新書)、『JR中央本線 知らなかった凄い話』(KAWADE夢文庫)。
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