走るバスの窓の外はしばらくの間、同じ景色が続いていた。青空の下には、コンクリートの壁――。JR気仙沼線・陸前小泉駅の手前、津谷川に造られた堤防だ。河口の北側にある小泉海岸には、高さ14.7メートルという防潮堤がそびえる。福島、宮城、岩手の太平洋側は、東日本大震災のあと防潮堤の建造が進んだ。賛否をよんだが、工事が完了した地域の住民は今後、防潮堤と共に生きていくことになる。防潮堤が「必ず津波を防ぐ」わけではない宮城県気仙沼市の内湾地区。震災時は津波で壊滅的なダメージを受けた。現在では商業施設や飲食店が立ち並び、海辺をぐるりと防潮堤が囲んでいる。魚市場の前や、その先の商港岸壁に、防潮堤は続いていた。復興庁によると、宮城県では2024年3月時点で防潮堤の整備が計画の99%に達した。気仙沼市内で乗車したタクシーの運転手は、「住民の意見は、さまざま」と話した。いつ来るかわからない津波のために巨額の費用を投じて防潮堤をつくる意味があるのか、だが、もし津波に襲われた時の備えとして防潮堤がなかったら、誰が責任をとるのか――。しばしば引き合いに出されるのが、岩手県宮古市田老に震災前からあった防潮堤だ。高さ10メートル、総延長2433メートルで「万里の長城」に例えられるほどだった。しかし、東日本大震災では17メートルを超える津波が防潮堤を超えて地域を壊滅させ、多くの犠牲者が出た。一方で田老では、「防潮堤は津波を完璧に防ぐものではなく、避難のための時間を稼ぐもの」と位置付けられてきたという。明治三陸津波、昭和三陸津波と2度、甚大な被害を出した田老。一方、1960年のチリ地震津波では、ダメージを最小限に食い止めた。だが東日本大震災では......。防潮堤が「必ず津波を防ぐ」わけではない。人口が4分の1に減った石巻市雄勝、直立する防潮堤宮城県石巻市雄勝を、記者は2026年2月下旬に訪れた。ここは、高さ約17メートルの津波に襲われた。震災後、かさ上げと防潮堤の整備が行われた一方、人口は激減した。道の駅は、海面から約9メートルのところに建つ。ここも、震災後に造成された。直立する防潮堤が、海との間を隔てる。41段の階段を下りて海辺までいくと、視界には雄勝湾が広がった。その後、太平洋を左に見ながら県道238号線に沿って歩いた。防潮堤はずっと続く。途中、壁面に見事なアートを施した一角が現れた。海が見えない代わりに、松林の美しい絵柄が気持ちを和ませてくれた。30分ほど歩いた先に、「雄勝ローズファクトリーガーデン」(以下、ガーデン)が見えた。運営する法人「雄勝花物語」の代表理事・徳水利枝さんは震災で、雄勝中心部にあった自宅が全壊した。ガーデンの近くは現在、更地や太陽光パネルが並び、人家はない。この辺りにかつて住んでいた人たちは会社員や公務員が多く、震災後は別の地域に移った。11年以前は4000人ほどいた雄勝の人口は26年1月1日現在、970人だ。雄勝生まれの徳水さんは、残った。「雄勝を離れての生活が、想像できませんでした。復興に自分が主体的に動きたかった。いろいろと考え、試したうえで実感したのは、私に残された土地をどう生かすか。そこで、まずは片づけて花を植え始めたのです」活動を始めると、ボランティアに来る人が「手伝いますよ」と参加してくれるようになった。12年に入ると仙台の造園会社の社長や、千葉大学園芸学部の関係者と協力者の輪が広がり、ガーデン運営が本格化していった。徳水さん自身は石巻市中心部の「みなし仮設」から、雄勝まで車で通った。「当初はライフラインが復旧していなかったので、灯油缶に水を入れて持ってきて、花に水をあげていましたね」「被災したこの地を何とかしたい」思いは同じ雄勝の風景は、震災前と比べて大きく変わった。復旧工事が進み、かさ上げや道路の整備、住民の高台移転、そして防潮堤の建造――。ガーデンも17年、復興道路の建設のため場所を50メートルほど移動した。防潮堤の建設に際しては、徳水さんの夫が反対運動の中心となって、行政と何度も話し合いをしたという。徹底的に調べ、書類を書き、それでも決定は覆らなかった。徳水さんは、こう話す。「主張が通らなかったからといって『もうダメだ』と切り捨ててしまうのではなく、それならこのコミュニティーのために次は何をしなければならないのか考えるのが大事だと思いました。被災したこの地を何とかしたいのは、住民も行政も同じ。ガーデンの事業は、お互いに意見が合うところを見つけて一緒にやれることをやってきました」今では高校生や大学生、企業ボランティアなど年間1000人ほどがガーデンを訪れる。花の季節には、色鮮やかな花が園内を彩る。震災で人口が大きく減った街で、初めは「人に会いたい」と大きな不安があった。だが、「震災前からの知り合いとは以前とは違った形で、震災後に出会った人たちとは新たに、それぞれつながりができました。それが途切れず、日々の暮らしのなかで繰り返されてきた15年です」ガーデン運営者のうち、80代の女性がコロナ禍のとき、こんなことを口にした。「おらたち、行くところ、やることがあって幸せだね」徳水さんの心に響いた。「これこそ、雄勝のコミュニティーのプラス面ではないでしょうか。この言葉が、私にとっては十分でした」。◇東日本大震災から15年。被災した人々は長い年月の間にどう変わり、今をどう思っているのか。J-CASTニュースでは2026年も、現地取材を通して描きます。(J-CASTニュース 荻 仁)
記事に戻る