2024年 4月 24日 (水)

【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
43 野村證券専務の言葉も白紙撤回

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あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   2001年、TMCは華やかな前年とは、うって変わって沈んだ気分で正月を迎えることとなった。時間をかけ、先行者の優位を保ち、待ちに待ったADSL商用サービス全面解禁に辿り着いたというのに、金庫の中はからっぽ同然なのだ。この時点で、トップランナーは深刻なガス欠に見舞われてしまっていたのだ。

   自己資金60億円、社外借入金40億円、合計100億円は、都内100電話局50万回線という大規模なサービス展開の基盤を構築するために費やされていた。

   これで日本に本格的なブロードバンド通信時代が幕を開けたのだから、惜しい金ではない。それまで日本の通信政策を事実上牛耳っていたNTTが立てていた日本のブロードバンド化シナリオ(ADSL時代を飛び越え、FTTH時代へという国益無視の通信独占資本の謀略)は完全に粉砕した。

   自らもADSLサービス提供を宣言した以上、もうNTTは引き返せない。もし、これが日本の通信政策変更のための捨て石で終わってしまうなら、我々の役割は完了し、あとは舞台から静かに消えてゆけばよい。私の本音はそうであった。

   しかそうそうは問屋が卸さない。この会社は、営利企業としての成功という目標を掲げることではじめて金も人も動員できたのだ。この金と人に対する借りはしっかりと返さねばならない。TMC経営陣の1人として、また、この会社の創業者としての社会的責任は実はこれから始まるのである。通信政策の方は、この1年で活の入った郵政省と、ブロードバンド時代に向け火がついた世論とに、これからは安心して任せておけばよい。さあ、事業の成功に向けていよいよ専念できる、となったところで迎えた資金難であった。

   明らかに、事業的には40億円分使い過ぎていた。政策投資銀行を過信していた。さらに銀行資金のリスクへの軽視もあった。それというのも、2001年の3月までにマザーズ上場可能という幹事証券会社のお墨付きを貰っていたからだ。

   実際、この年の1月1日から、TMCの株式は譲渡禁止制限を撤廃して、自由に売買できる公開株となっていた。12月には1株を4株へと株式分割し、株数は30,800株に増え、単位株価を引き下げた。このように前年6月終了の第一期決算をもって上場するスケジュールが銀行融資工作と並行して進んでいたのだ。

   かの「国策として上場させます」と言い切った幹事証券会社、野村證券の坂口専務の宣誓が、まさか白紙撤回されようとは夢にも思っていなかった。銀行融資とは別途に、少なくとも数十億は当てにしていた。このあたりに油断が生じる背景があった。

   だが、この上場による資金調達も年を越した段階では随分怪しくなっていた。TMCの事業モデルであった米国ADSL企業が軒並み経営悪化に見舞われ、NASDAQ株価は半年間に数十ドルが数ドルにまで急落していた。ネットバブルの崩壊である。

   事実上、年明けから野村證券からは幹事会社を降りる旨の恥も外聞もない通告が様々なルートから伝わってきた。直接金融の環境も、ITバブル崩壊が現実化する過程で、一挙に我々から疎遠になっていった。

   こんな中で、年が改まり、TMC内には、小林君の社長交替を求める機運が高まっていた。彼の統率力を危惧する声が役員会でも執行役員会でも前年後半から表明されるようになっていた。

   営業力強化を目的に創立した子会社東京めたりっく販売(株)は何一つ成果を出せぬまま開店休業状態になっていたのは仕方ないにしても、会社に居る時間がほんのわずかで、社外での動向も不明な状態が普通の事となっていた。

   この難局に、彼の個人商店主義的な個性はたしかに適さないであろうことは私も感じていた。だが社長は社長である。創業以来、会社の顔を務め、TMCをここまで引っ張って来た最高責任者を、そう簡単に入れ替えていいものか。しかも彼は、私と創業者株をほぼ半分ずつ分け合うパートナーである。慎重な判断が要求された。

   だが、順風満帆の航海が終わり、これからの嵐の海に乗り出すにあたって、その舵取りに何か、デモーニッシュな「あくどさ」が必要なことは明白であった。必要なものは論理や知識ではない。正義感でも達成感でもない。

   本能に近い妄念のようなものである。体育会系人間なら理解できる肉体限界を突き抜けた所で出てくる気のようなものである。不条理に動ぜずじっと耐えて勝負を投げない、そのいやらしさとしぶとさを内に秘めた人間という点が、彼には欠けていて、確かに私にはある一種の「あくどさ」という資質があった。

   生来のものというより、高校時代に勉学そっちのけでふけった剣道や柔道の世界、川崎でのセツルメント運動、そして機動隊暴力を前に無残な敗北を噛みしめた学園闘争の日々が身体に染み込ませたものである。思えば徒手空拳ではじめた数理技研のビジネスもその延長にあったのではなかったか。いま彼に代わるとすれば対外的には、私しかいない。こう納得して私は社内の声に押される形で唯一の代表取締役として社長を引き受けた。

   他の役員や社員は、まだマシか、という程度の評価だったかもしれないが、まだマシ程度では済まさんぞ、と私は密かに最後の一戦への覚悟を固めた。

   会長に退くことを納得した小林君には今さら何を好んでという顔もされたし、宴の時は終わったよと諭されもしたが、まあそれだけのことで済んだ。この社長交代が正解であったかどうか、こればかりは私が決められることではない。この物語を読まれている読者に判断にお任せしたい。

   こうして七草明けの休日、私は東京、大阪、名古屋各めたりっく通信の役員と幹部社員30名ほどを熱海の旅館に招集し、全国会議を開き一夜の宴を張った。社長交替を告げ、深刻な資金難に遭遇しているとの非常事態宣言を発した。

   未開通申込者の早急な開通促進、新規申込者の大幅獲得、取締役の給与カットや冗費の節減などを訴えた。そして、私個人が今後重要な決断を下したときは、これは会社全体にとっての重大な決断となることを、つまり社長というリーダーシップの存在感を強調した。

   こういう「臭い演出」は小林君にはない新しさであった。だが、酒が入った懇親の夜は、組織の一体感を生んだという点で、私の演説よりはよほど意義があったようだ。なにしろ、これだけの人数が一堂に会したのは初めてで、顔を見知らぬ同士も多かったのである。それぞれの感慨をもって30人は再び日常に戻っていった。だがこの宴が最初にして最後の宴になろうとは、運命の神のみぞ知ることであった。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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