2024年 4月 18日 (木)

震災と日本人 倫理学者 竹内整一
連載(11) 家を流されても出なかった涙、お祭りを見てはじめて出てきた

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   満開の桜の下、岩手県釜石市で、地元有志が江戸時代から伝わる伝統芸能「虎舞」を披露したとの報道があった。笛や太鼓、はやしに合わせて踊る虎舞は、漁師の安全祈願の祭りなどで舞われてきたもので、保存会20人が、津波で亡くなったメンバー2人への追悼の思いも込め、勇壮に駆け回る2頭の虎を演じた。これを見ていた、自宅も店も流されたという美容師の女性の言葉。――「家を流されても涙は出なかったんですけど、きょうの虎舞で涙が出てきました。頑張っていきたいです」(「復興へ勇壮に虎の舞 笑顔と涙」東京新聞、NHKニュース7など、2011年4月24日)。

   震災から一か月半、必死に動き続けてきた時期、――精神医学のいわゆる「多動期」には抑圧してきた「かなしみ」が現れてきたということになるのかもしれない。やまと言葉の「かなし」とは、その「カナ」が「…しかねる」の「カネ」と同じところから出たものであり、何ごとかをなそうとして「しかねる」張りつめた切なさを表す言葉である。その切なさが切なさとしてあらためて感じ取られてきたということでもあるのだろう。

   「かなし」には、古くは「愛(かな)し」という用法もあり、そこには、「どうしようもないほど、いとしい」という意味が込められている。「かなしみ」とは、大切な何ものかを失うという喪失感情であるが、それが「いとしさ」「切なさ」として形をとらないところでは、涙を流すこともむずかしい。

   被災地の捜索では、アルバムや賞状など思い出の品々が特に大切に捜し出されていたが、それも喪失した人々を弔い(訪い)、悼み、「いとしむ」ための大事なたづき、手がかりとなるものだからである。虎舞の祭りは、女性にとって、そうした喪失した人々や場をリアルに懐かしく再現するものであったからこそ堰を切ったように泣くことができたのだろう。

元気や勇気は「かなしみ」の内から湧いてくる

   「やりきれない」という言葉があるが、「やりきれない」とは、そうした堪えがたい思いをどこにも「遣る」ことができない、だれにも受けとめてもらえないということである。「やる瀬がない」も同じである。思いを遣って受けとめてもらえる「瀬」、場や人がいない、ということである。女性に涙を流させたものは、「遣る」ことのできる場や人のあることの再発見ということだったのかもしれない。

   もう一点、大事なことがある。それは、この「かなしみ」が漁師の安全祈願という祭りの場でもあったということの意味である。神も仏もいないかのような大災害を被ったこの時にあえて催されたこの祭りには、何ごとかをなそうとして「しかねる」人間の有限性と無力さと、それだからこそなお、祈り願わざるをえないという人間存在の「かなしみ」が色濃く込められている。「かなしみ」には、それを「かなしむ」ところにおいて生きる新しい力が湧いてくるという不思議さがある。

   今、世の中は、「かなしみ」でなく「いかり」が充満している。それはそれで十分理由のあることであるが、あらためて生き直そうとする元気や勇気のようなものは、「かなしみ」の内から湧いてくる。


たけうち・せいいち/鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。1946年長野県生まれ。専門は倫理学・日本思想史。日本人の精神的な歴史が現在に生きるわれわれに、どのように繋がっているのかを探求している。著書『「かなしみ」の哲学』『「はかなさ」と日本人』『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』『「おのずから」と「みずから」』ほか多数。3月25日に『花びらは散る 花は散らない』を新刊した。


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