2024年 4月 25日 (木)

金融業界

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歴史

銀行を倒産させない政策がとられる

   戦後の日本経済の急激な復興と発展を支えてきたのは、銀行を中心とする企業グループであった。戦後の政府の金融行政は“護送船団方式”と呼ばれるように、銀行に対して手厚い保護を与え、銀行は政府の産業政策に沿って積極的にグループ企業へ融資を行い、企業活動を支援してきた。そうした制度が“メインバンク制度”という日本特有の金融慣行を作り上げ、高度成長を支えてきたのである。

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   “護送船団方式”は、銀行を倒産させないという日本の金融当局の基本的な政策を表現するものであった。すなわち“護送船団方式”の下では、一番船速の遅い船、すなわち最も収益性の低い銀行に合わせて銀行行政が行なわれてきたのである。すなわち一番効率の低い銀行でも生き残れたのである。長い間、日本では銀行は倒産しないものと信じられてきた。また、政府は銀行を保護する一方、金利規制を行い、家計の預金を銀行に集中させる政策を取った。すなわち、低金利政策を実施することで、預金金利を実際よりも低く設定し、低利で銀行に集まった資金を産業に供給し、企業の設備投資などを支援したのである。

政府の指導のもとで独自の資金循環システムを作る

   また、銀行を都市銀行、長期信用銀行、信託銀行、地方銀行、相互銀行など、それぞれの業務の役割を明確化することで、政府は資金の流れをコントロールしていた。たとえば、長期信用銀行3行は店舗数を規制される代わりに金融債を発行する特権を認められていた。長期信用銀行は、金融債を通して集めた長期資金を設備投資資金として企業に供給する役割を担ったのである。また、大量の余裕資金を抱える地方銀行などは、その資金を使って金融債を購入するなど、日本の金融制度は政府の指導のもとで独自の資金循環システムを作り上げてきた。

みずほフィナンシャルグループの本社
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   だが1990年代に入ると、そうした護送船団方式は崩れ始める。銀行は倒産しないという神話は、北海道拓殖銀行の破綻で完全に崩れ去った。それに続き、長期信用銀行3行のうち日本長期信用銀行と日本債券信用銀行も破綻し、国有化される事態が発生したのである。この3行の破綻を引き金に、日本の金融界の大編成が始まった。98年には自己資本比率を満たせない銀行に対して公的資金が導入され、各行は公的資金を使って不良債権の処理を進め、財務内容の健全化、業務改善などを行なってきた。そうした過程で、りそな銀行の実質的な国有化が行なわれるなど金融業界の再編成はさらに進み、現在、金融業界再編は最終局面に入りつつある。

金利の自由化が大きなダメージを与える

   では、なぜこうした大規模な銀行再編が起こったのであろうか。日本特有の金融制度が戦後の経済復興の過程で果たした役割は極めて大きい。戦後、限られた金融資源を活用して産業復興を図るために政府の低金利政策とメインバンクを軸とする極めて特異な制度が構築された。それは政府統制と金融市場を閉鎖することによって可能であった。だが、日本が世界第2位の経済大国となり、膨大な経常黒字を計上するようになったとき、そうした閉鎖的な金融制度を維持することは事実上困難になってきた。また、政府の金利統制も、企業や家計部門が成長するとともに、維持することが困難になってきた。金融制度の自由化、円の国際化は、成熟した日本にとって避けて通ることができない道であった。日本の金融制度の自由化は、最初はアメリカの圧力を受ける形で始まった。80年代半ばに金利自由化と円の国際化を促進するために「日米円ドル委員会」が設けられ、金利自由化、円の国際化の具体的なスケジュールが決まった。
   金利の自由化は、それまで規制金利のもとで超過利潤を享受してきた銀行の収益に大きなダメージを与えた。また、企業が銀行借入依存から資本市場での資金調達を増やし始めたことも、銀行経営の環境を大きく変えることになった。それは預貸利ざやを縮小させ、銀行は従来のような企業融資だけで収益を確保することができなくなってきたのである。

国際決済銀行の自己資本規制が追い討ちをかける

三井住友銀行東京本部
三井住友銀行東京本部

   それに追い討ちをかけるように、国際決済銀行が銀行の自己資本規制を導入することを決めた。それによって国際業務を継続するには、自己資本比率8%を維持しなければならなくなった。基準を満たせないと、銀行業務は国内市場に限定されてしまうことになった。また6%の自己資本比率を満たさないと国内業務も継続が認めらなくなった。一般的に過小資本である日本の銀行は、メインバンクとして大量に保有する取引先の株式の含み益を自己資本に加えることで、こうした基準を満たすことができた。利ざやの縮小、企業の資金需要の低下という経営環境の変化に加え、BISの自己資本規制の導入が、日本の金融業界の再編を促進する原動力となった。

大幅な金融緩和がバブルを生み出す

   プラザ合意以降、日本政府は円高に伴うデフレ効果を相殺するために、大幅な金融緩和を実施した。それが、日本経済のバブルを呼び、地価と株価が暴騰した。株価上昇で株の含み益も増え、土地投機などの新規の銀行借入需要も増加した。銀行も企業の通常の資金需要低下を埋め合わせるために、積極的に不動産投資を進めた。だが、90年代初めに日本銀行が金融引締めに転じたことで、株価と地価は急落に転じた。それが結果的には、90年代の銀行の大量の不良債権を抱え込む原因となった。また、株価下落は銀行の自己資本比率を低下させ、銀行経営に重大な影響を与えた。不良債権の貸し倒れに備えて大量の引当金を積む必要が生じたことも、銀行の経営を大きく圧迫することになった。

自己資本比率達成がクレジット・クランチを引き起こす

   自己資本比率を満たせなくなった銀行は、有税で引き当てた貸倒引当金を自己資本に算入するなどして、自己資本比率の維持を図った。だが、その認定を巡って金融当局との解釈の違いなども発生し、多くの銀行は苦境に立たされた。自己資本比率を達成するために銀行は資産圧縮を迫られ、新規融資抑制や企業からの融資回収を図るなどの対策を講じ始めた。

東京三菱フィナンシャルグループの本社
東京三菱フィナンシャルグループの本社

   それが日本経済にクレジット・クランチ(金融逼迫)を引き起こし、一般企業活動を阻害する影響を与える局面も出現した。そうした様々な手段を講じたにもかかわらず自己資本比率を達成できない銀行は、公的資金を求めるか、国有化を迫られたのである。また、体力の弱い銀行、大量の不良債権を抱える銀行は、財務内容の健全な銀行との合併を模索し、体力のある銀行は問題銀行の買収を行なったのである。

90年代後半に、金利自由化など“日本型ビッグバン”を実施

   日本では戦後、証券取引法によって銀行業務と証券業務の兼営が禁止された。戦後の日本の金融制度の特徴は、先に触れた銀行間に業務の垣根を設定すると同時に、銀行と証券の間に垣根を設けるなど、2重の垣根に囲まれていたことである。それが可能であったのは、金融機関の競争を制限する金融行政があったからである。しかし、そうした日本特有の金融制度は、発展段階では許されたものの、日本経済の復興が完了した段階で、既に矛盾を露呈し始めた。

公定歩合

   70年代にはアメリカで、80年代にはイギリスで金融自由化が行なわれた。日本でも金利自由化に加え、金融機関の業務の自由化、外為規制の緩和などの自由化が進んだ。銀行業務と証券業務の垣根も、銀行と証券会社が子会社を設立することで相互に参入することが認められた。また、90年代後半にはイギリスの金融自由化“ビッグバン”になぞらえて、“日本型ビッグバン”が実施され、日本の金融自由化は制度的にはほぼ完成する。

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