2024年 4月 19日 (金)

精密機械業

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歴史

西ドイツを抜き世界1のカメラ大国に

  カメラ、ウォッチ、クロックなど精密機械業界は、第2次大戦後、技術革新の成功によって瞬く間に世界のトップに踊りでることに成功している。カメラの場合、朝鮮戦争をきっかけとして占領軍向けの需要が増大が増大する一方、内需が拡大。1950年に50社だったカメラメーカーは、1953年には100社に迫るまで増加した。朝鮮戦争後の不況のなか、小企業は淘汰されることになったが、理研光学工業による低価格カメラ「リコーフレックスⅢ型」の登場によってカメラブームが到来、大衆向け耐久消費財としての地位を確立した。また、カメラが奢侈品から大衆消費財へと変化するなか、熟練労働に依存した少量生産から機械化と自動化による大量生産方式に移行し、国際的な競争力を強化している。

Transition in production and export of still cameras of Japan

  1960年代から始まった高度成長時代に、こうした努力が開花する。1950年代、輸出市場では日本製のカメラは当時世界1位の西ドイツ製に比べて2分の1程度の価格で、代替品として買われていたが、1960年代には性能面でも向上、1964年には輸出金額、1967年には輸出数量で西ドイツを上回り世界1位のカメラ大国となった。

マイコン搭載の一眼レフでキヤノンが躍進

  1970年代に入ると、電子工学技術の導入によってカメラの自動化、軽量化、低価格化が進行、カメラ業界での再編が起きた。なかでもそのきっかけとなったのが1976年、キヤノンが発売した一眼レフ・カメラの「AE-1」の登場だ。AE-1は、世界で初めてマイクロコンピューターを搭載して露光を完全に自動化、製造面でも電子制御した機器を導入して画期的な自動化と省人化を実現している。AE-1の登場によって、各社が電子制御機能を搭載した新型カメラを相次いで投入、競争が激化する。1970年代半ばまで一眼レフ市場で優位を保っていた「ペンタックス」で知られる旭光学工業、「ニコン」の日本光学工業という高級カメラは地盤沈下、代わってキヤノン、オリンパス工業が成長を遂げた。また、技術革新の対応に遅れたメーカーは経営不振が表面化、1975年に外資系のミランダカメラ、1977年にペトリカメラが倒産したのに続いて、1983年にはヤシカが京セラに支援を要請して吸収合併、マミヤ光機も大沢商会破綻の余波で倒産、1993年にはオリンピックに吸収され、マミヤ・オーピーとなった。

クオーツ革命を契機に時計も世界1位に

カシオの電波時計では感度・SN比特性に優れた検波ICを使用。また受信アルゴリズム(データ解析)も最適化し、受信効率を上げている。
カシオの電波時計では感度・SN比特性に優れた検波ICを使用。また受信アルゴリズム(データ解析)も最適化し、受信効率を上げている。

  ウォッチ、クロックなど時計も、朝鮮戦争を契機とした好況のなか、急速に回復を遂げた。1947年に160万個だった生産量は、49年には306万個、50年はドッジ・ラインの影響で一時落ち込んだが、1954年には560万個と戦前の水準を上回っている。高度成長時代にはカメラと同様、輸出を中心として成長を遂げた。国内市場は1960年の690万個から1964年に1010万個に達し成熟化、一方の輸出は1960年から1966年まで年率8割以上のペースで拡大、1972年には輸出比率は66%にも達した。
  その後、日本の時計業界が世界に躍進するうえで大きな転機となったのが、「水晶転換」だ。時計は1960年代、電気と電子制御によって時間を計測する電子時計の開発が進められてきたが、1969年に諏訪精工舎が世界で初めて水晶で制御するクオーツ(水晶発振)式電子時計を商品化、時計はクオーツの時代を迎えた。1970年代後半には水晶転換による技術革新と設備投資を積極化した結果、日本の時計業界は優位性を確保、1980年にはウォッチ生産量は8789万個とスイス、クロック生産量でも5896万台と西ドイツを抜いて世界1位の時計大国となった。また、水晶転換による技術革新によって業界の再編も進んだ。1974年にデジタル式時計でカシオ計算機が参入、市場が飽和するなか、リコー時計オリエント時計などは地盤沈下、服部セイコーを中心とするセイコーグループシチズン時計、カシオ計算機による寡占化が進展した。

複写機など多角化も進む

  1960年代の高度成長期からカメラ、ウォッチ、クロックなど時計の成長とともに精密機械業界では、事務機器、計測器など多角化も進んだ。なかでもその先駆け的存在となったのが、現リコーの理研化学工業だ。1955年に小型卓上複写機の製造・販売を開始したのに続いて、印画紙を用いるジアゾ式複写機、EF式複写機を相次いで投入。1971年にはオフィスコンピュータ、1973年にはファクシミリにも進出した。また、1963年には富士写真フイルムも英ランクゼロックスと合弁で富士ゼロックスを設立、複写機市場に進出した。1960年代、複写機はジアゾ式やEF式が主流で普通紙はゼロックスが独占していたが、1968年にはキヤノンが独自方式で複写機に参入を実現、1971年には小西六写真工業(現コニカミノルタ)も今の主流となったPPC複写機に進出した。

  その後も多角化の勢いは衰えず、プリンタ、スッテパー、医療用機器などにも展開。なかでも多角化が進んだキヤノンの場合、1990年度の売上高構成比は、カメラが18.9%に対してその他光学機器が5.6%、事務機が75.5%まで成長するなど、精密機械メーカーは光学、精密加工組立、電子という3つの技術を融合して、単なるカメラメーカーから画像・映像の記録と通信を中心とする総合的なメーカーへと転身を遂げている。

90年代にレンズ付きカメラが登場、主流となる

  1985年の円高を契機として、精密機械業界は大きな変革期を迎えることになる。銀塩カメラ、時計とも高度成長期を終え成熟段階に入っていた上、円高が収益を圧迫。海外での現地生産を進めたものの、大きな助けとはならなかった。バブルが崩壊した1990年代にはカメラ市場は1眼レフなど高級品やコンパクトカメラなど中級品に代わって、レンズ付きカメラが登場、マーケットの主流を占めるようになった。1996年には、装填が簡単なカートリッジ式フィルムを使用して小型で軽いことを売り物としたAPS(新写真システム)規格カメラが登場したが、期待はずれに終わっている。
  一方、時計もマーケットの成熟化、円高を受けて生産量は減少。1990年代初めにはアナログ回帰やTPOに応じて1人が複数個を所有する傾向が生まれ、一時、国内市場は回復することがあったが、その後は縮小に向かった。カメラ、時計メーカーともOA機器情報機器への多角化を強化したが、キヤノンが複写機、レーザービームプリンタなど非カメラで業績を伸ばす一方、多角化に失敗した企業とは格差が拡大。キヤノンを中心として富士写真フイルム、リコーが3強を形成する形となった。

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