2024年 4月 30日 (火)

日本は完全に向こう側になってしまった――ダッカ・テロ事件の背景にあるもの(下)
聖心女子大・大橋正明教授に聞く

   バングラデシュの首都ダッカで起きた痛ましいテロ事件は、日本人7人が犠牲になったこともあり、国内でも大きな衝撃が広がった。J-CASTニュースは今回、南アジアの貧困問題解決に取り組むNGO「シャプラニール=市民による海外協力の会」の元代表理事で聖心女子大学教授(国際開発学)の大橋正明教授に話を聞いた。

   「9.11」の暗転がバングラデシュにやってきた」――ダッカ・テロ事件の背景にあるもの(上)では、9.11以降の西洋社会vsイスラム社会の対立、そしてバングラデシュが急速な経済発展を遂げた中でのひずみ、という国内外に生じた数多の「ささくれ」が、何らかのきっかけを経て、若者たちを過激思想に走らせる流れを生んでしまった、という見方を紹介した。(下)では日本とバングラデシュの関係を振り返りながら、日本人が犠牲になった事情、ISと高学歴な若者のつながりについて聞いてみた。

  • 大橋正明教授(2016年7月6日撮影)
    大橋正明教授(2016年7月6日撮影)
  • 大橋正明教授(2016年7月6日撮影)

バングラデシュ独立をいち早く承認した日本

――バングラデシュは親日国として知られますが、日本とバングラデシュはどのような関係を築いてきたのでしょうか。

大橋教授   1971年にパキスタンから独立した際、日本はいわゆる西側諸国の中で最も早く国家を承認したのです。
その当時、パキスタンは中国と近く、中国はアメリカと近かった。一方のインドはソ連と近かった。そのため、インドが独立を支援したバングラデシュは、どちらかというとソビエトとインド寄りでした。独立後に政権をとったアワミ連盟も、もともとはソビエト・インド寄りの傾向でした。そうした背景から、アメリカなどの西側諸国はバングラデシュの独立をあまり支援しなかったのです。
ただ、日本政府だけは非常に早く承認をしたので、バングラデシュにおける日本のイメージは非常によくなりました。
1977年には、日本赤軍が起こした日航機ハイジャック事件がありましたね。あの時、バングラデシュの首都ダッカの国際空港に強制着陸したのですが、バングラデシュ人はあの時もよく対処してくれました。
加えて日本は最大の援助国でもあります。そのため、両国は長年良好な関係を保ってきました。

実行犯は警備が手薄なところを狙った

――近年の日本からの援助の状況はどうなっているのですか。

大橋教授   援助額(主にODAの円借款)は5年前の2007年が429億円。08年が397億円、09年が387億円...という具合です。ところが2015年度は1年だけで1330億円です。これは、2014年に日本政府が向こう4~5年で6000億円の支援をバングラデシュ政府に提供ということを決めたからです。
もともとバングラデシュと日本は2015年に行われる国連安全保障理事会の非常任理事国選挙で1枠をめぐり競っていました。しかし報道によると、日本が6000億円の約束を2014年にしたため、バングラデシュ政府は立候補を辞退し、日本を支持する考えを表明したという経緯があります。
それから安倍政権は、今は開発協力大綱とよぶODA(政府開発援助)の方針の中で、ODAと日本の民間企業との関係を深めました。そうしたこともあり、バングラデシュでは、日本関係の非常に多くのプロジェクトが行われている状態になっているのです。しかし、その分、日本人の警備がどうしても手薄になってしまった可能性もあります。

――今回テロの犠牲になったのは、JICA(国際協力機構)が発注したプロジェクトに参加していた方々でした。襲われた状況について、どう見ていますか。

大橋教授   今回襲われた方々は現地に住んでいるのではなく、短期出張者ですよね。事件現場となったレストランはダッカの中心部で大使館や高級住宅が並ぶグルシャン地区にあります。このグルシャンには外国人が集まる高級ホテルがあるのですが、犯人がそこを狙っていないのは、やはり警備が手薄なところへ行ったということです。
駐在員は、基本的に危ないところへ寄らず、自宅で食事をとります。一方で出張者はホテルに泊まる。JICA関係者は必ずしも最高級のホテルに泊まれるわけではないので、もう少し安いホテルに泊まる。そうすると外に毎日のように食事に出なくてはいけない。今回の事件は、そんな二重の意味でのソフトターゲットが狙われたわけです。本当に残念に思います。

今の日本は「向こう側」になってしまった

――今回のテロについて、ネット上では「親日国なのに、なぜ日本人が襲われたのか」という反応がよくみられました。日本人はこうしたテロ組織にとって「敵」でしかないのでしょうか。

大橋教授   今回、襲われた日本人の方は「日本人だから殺さないで」といったことを叫んだと報じられています。昔は間違いなくそういう論議が通じました。
バングラデシュ人というのは、もともと日本人に似ていて「ウェット」な人たちです。エモーショナルな人たちとも言えますね。もともとはインドの一部だったことから、おしゃべりでうるさいところもあるのですが、一方で東南アジアに近いこともあり、非常に温厚な人たちなのです。そして、先ほど話したとおり、日本に対しては歴史的な背景からすごく親近感を持っています。
しかし今の日本は、イスラム過激派からすると、完全に向こう側=「有志連合」や「十字軍」の一員となってしまいました。安倍晋三総理の安保法制でまさにそういう姿勢を示したわけですから、過激思想に走った人々にとっては、もう「日本人だから」というやり方は残念ながら通じなくなってしまったのです。
日本からの援助は経済開発に偏っているので、経済成長の中で生じてしまった一層の不正や腐敗の問題は野放しになったままです。賄賂の問題もそうですし、たとえば、逮捕された人たちがちゃんと弁護士をつけられるだとか、拷問を受けないだとか、女性がセクハラされないだとか、そういう重要な社会的正義が守られていない。
そんな政府を日本が援助して経済成長を続けていく――というのは、一部の人たちから見れば、ちょっと絶望的な気分になるんじゃないかという気がするのですよね。「僕ら金のために生きてるんじゃないんだ!」と。今回の事件では、狙われたわけではないにせよ、避けられなかったのはそのせいですよね。

貧困層はISの思想に触れる機会が少ない

――実行犯は主に高学歴で裕福な家庭で育ったと報じられました。イスラム過激派組織IS(イスラム国)も犯行声明を出しており、そのつながりが指摘されています。

大橋教授   おそらく彼らはISの現場に行ったわけではなく、インターネットで(IS側と)知り合っています。ネット上で、かつ英語でやりとりをしていたのでしょう。これが貧しい人となると、ネットにアクセスができない。そして英語も話せない。そのためISの思想に触れる機会が少ない。そういう意味でISに関しては裕福な人の方が触れやすい状況にあります。
一方で、貧しい人たちでは「マドラサ」というイスラム神学校に通い、国内の過激派組織のJMB(ジャマトゥール・ムジャヒディン・バングラデシュ)などに参加するケースが数的には最も多かったです。JMB以外にも過激派組織はいくつかありますが、いずれも禁止されており、弾圧を受けています。

――裕福層の若者というと、どのような暮らしぶりなのでしょうか。

大橋教授   スポーツカーを乗り回しているような若者もたくさんいます。特に繊維業関連の裕福層は日本人よりはるかに豊かな生活をしています。工場労働者の月給は1万円以下ですが、社長クラス、所有者クラスは我々より持っているのではないでしょうか。
それでもこの国には社会保険や社会保障が十分整備されているわけではないし、病気になれば困ってしまう。警察も信用されていないし、捕まれば拷問される。そういう社会的正義が守られていないのが現在の大きな問題なのだと思います。そういう「不正義」が彼らをテロリズムに走らせてしまうきっかけを作っている。

日本は人道的・社会正義を実現するような支援を

――今回の事件によって、どのような影響が出るとお考えですか。

大橋教授   外国人にとって現地の治安は2015年9月以降、急速に悪化しました。日本人とイタリア人が殺される事件が立て続けに起き、協力隊はダッカ周辺を除いてほとんど引き返したのです。今回の事件を受け、企業活動も援助活動もシュリンク(縮小)し、しばらく様子を見る形になると思います。ですから、日本とバングラデシュ関係は非常に冷え込むと思います。
こういう事が続くようなら絶望的ですし、収まるとしても徐々にしか戻っていかないことになると思います。

――実行犯はそれを狙っていたということでしょうか。

そういうことです。テロに屈してはいけないのですが、屈せざるを得ない。他に方法がないという感じですね。非常に残念です。彼らが「不正義」と捉える部分をどうにかしていくためにも、日本はもっと人道的あるいは社会正義を実現するような支援を増やしていくことが必要だと思います。

大橋正明教授 プロフィール

1953(昭和28)年9月24日、東京生まれの62歳。東京の町田市在住。72年、早稲田大学政経学部入学。74年10月~75年3月までブッダガヤにあるマハトマ・ガンディーのサルボダヤ運動のサマンバヤ・アーシュラム滞在(主にバラチャティ郡バッガ村にある全寮制の「不可触民」の子どものための小中学校に滞在。子どもたちの親の多くはブーダン農民)。78年3月大学卒業。78~79年文科省系特殊法人職員、79~80年インド政府奨学金を受け、インドの国立ヒンディー語学院上級ディプロマコース終了。80~87年に日本の国際協力NGOのシャプラニールのバングラデシュ駐在員と東京の事務局長、88~90年に国際協力機構(JICA)奨学金で米国コーネル大学大学院国際農業・農村開発研究科修了、90~93年に国際赤十字・赤新月社連盟兼日本赤十字社のバングラデシュ駐在員として防災、農村保健、難民などを担当。93~2014年まで恵泉女学園大学教授、2014年 から現在まで、聖心女子大学文学部人間関係学科教授(NGO/NPO論、南アジア地域研究)。

主要な社会活動は、シャプラニール=市民による海外協力の会評議員(元代表理事)、国際協力NGOセンター(JANIC)理事(前理事長)、日本NPOセンター副代表理事、(公財)早稲田奉仕園常任理事、アーユス仏教国際協力ネットワーク理事、(社福)コメット監事、国際開発学会常任理事、地球環境基金運営委員他。

主著に、NGOs and Japan's ODA: Critical Views and Advocacy(Chapter 20 of "Japan's Development Assistance" edited by Kato, Hiroshi et.al, Palgrave McMillan, London, 2015)、『国際協力用語集』(共編著、国際協力ジャーナル社、2014年)、『グローバル化・変革主体・NGO』(共編著、新評論、2011年)、『バングラデシュを知るための60章[第二版]』(共編著、明石書店、2009年)、『「不可触民」と教育―インド・ガンディー主義の農地改革とブイヤーンの人びと』(明石書店、2001年)他。

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