2024年 4月 23日 (火)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(24)
「忠君」東條英機が見せた「傲岸不遜」

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   1945(昭和20)年8月15日の、いわゆる昭和天皇の聖断による敗戦は近代日本の終焉であった。このシリーズの初めで近代日本の出発点では四つの国家像があると述べてきた。つまりは帝国主義国家の道を歩んだというのが、私の考えであった。帝国主義の道は、軍事優先、そのための富国強兵、殖産興業などのスローガンを掲げたわけだが、人材としては官僚主導、軍人優位の社会だった。

   それが半ば強圧的に国策を担ったわけだから、当然のこと民主主義的な発想や論理は育つわけはなかった。軍事のみで進んだ道の最後は戦争継続を口にして、冷静な判断はできない状況になったのである。このことをあらわすのは、戦争末期の国策決定の中を見ていけばよくわかる。本土決戦を主張する軍部は、戦況がどのように悪化していようともそれを公式には認めず、ひたすら自らに都合の良い論理を展開して現実を見まいとしていた。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 「東條手記」では責任逃れの論理を展開した
    「東條手記」では責任逃れの論理を展開した
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  • 「東條手記」では責任逃れの論理を展開した

「東條手記」で国家と国民を中傷

   8月9日からの二度にわたる御前会議で、天皇はポツダム宣言の受諾を意思表示しているにも関わらず、その発言に抗するのは明らかに国家反逆の意思を持っていたと言っても間違いではない。ここに可視化されている史実は、これまで忠君の軍部が勇み足まがいに暴走したと弁護する論者によって美談風に操作されているのだが、このこと自体壮大な虚構といってもよかったのである。

   一見、忠君に見えるその論理にいかに傲岸不遜の意味合いがこもっているかは、東條英機元首相の言い分を見ると裏付けられる。今回は2008年に新たに発見された第一次資料をもとにその言い分を語っておきたい。

   私と半藤一利氏は、日本経済新聞の求めに応じ、同社記者井上亮氏とともに東京裁判で却下された資料を整理して分析を試みた。そこからは多くの未公開資料が発見されたのだが、その一つにこの年8月10日から14日までの間に東條が書いていた手記が新たに陽の目を見ることになった。この期間、東條は重臣といった立場で陸軍省を訪ね、強硬派の幕僚を励まし、重臣一同が天皇に呼ばれた時に、天皇の意思に添うように発言しながらあれこれ注文をつけている。たとえば次のようにだ。

「皇位確保、国体護持に就ては当然にして之をしも否定する敵側の態度なりとせば一億一人となるも敢然戦ふべきは当然なり」

   この発言はポツダム宣言の内容に注文をつけて、そして本土決戦を呼号する勢力と全く同じというべきであった。しかし東條の問題はこうした発言にあるのではなかった。もっと直裁な論理で国民と国家を中傷している点に特徴があった。それは8月13日に記述された一文の中にあった。1,100字ほどの原稿の中に驚くほどの内容があったのだ。

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