2019年 12月 6日 (金)

稀勢の里引退 「昔ながらのお相撲さん」がブルーハーツ熱唱した夜

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   大相撲の横綱稀勢の里(32)=田子ノ浦=が2019年1月16日、引退を表明した。初場所で初日から3連敗を喫し、ついに引退を決断した。3日目の栃煌山(31)=春日野=との一番が最後の相撲となった。

   兵庫県芦屋市の病院で生を受けた稀勢の里は、3600グラムの大きな赤ん坊だった。出生後、茨城県に移り、小学2年で相撲を始めた。小学校では相撲の他に野球のチームに入り、中学校では野球部で活躍した。

  • 「昔ながらのお相撲さん」が土俵を去った(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)
    「昔ながらのお相撲さん」が土俵を去った(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

職人気質、頑ななまでにまっすぐな男

   当時から運動神経が良かった稀勢の里は、中学時3年時にすでに身長が180センチを超え、投手として高く評価されていた。茨城県内の野球の強豪校からスカウトされたほどだったが、稀勢の里が選んだのは相撲の道だった。

   中学卒業後に鳴門部屋に入門し、2002年夏場所(5月)で初土俵を踏んだ。稀勢の里と同じ1986年(昭和61年)生まれの力士は出世した者が多く、後に14人が関取となった。昭和61年生まれにちなんで稀勢の里の世代は「花のロクイチ組」と呼ばれている。

   稀勢の里を一言で称すると「昔ながらのお相撲さん」である。

   スポーツ紙で大相撲を担当していた当時、稀勢の里は勝っても負けても言葉が少ない力士だった。昭和30年代、40年代生まれの力士は中卒の叩き上げが多く、総じて口数が少なかった。職人気質の昔の力士は、負けた日に報道陣に背中を向けて口を閉ざす力士も多かった。そんな力士たちと稀勢の里はかぶって見えた。

   稀勢の里のすべての振る舞いは、まさに職人気質だった。相撲に取り組む姿勢は頑ななまでにまっすぐで、支度部屋ではグッと感情を押し殺し、多くを語らない。稀勢の里には、平成の大横綱貴乃花と同じような雰囲気があった。

「TRAIN-TRAIN」歌詞に思い載せるように

   初土俵から十両、幕内までスピード出世を果たし、初めて3役に昇進したころには未来の横綱を誰もが疑わなかった。だが、2012年初場所(1月)で大関に昇進してから足踏みが続いた。2014年初場所では7勝8敗と、カド番を経験し、大関陥落の危機にさらされた。

   大関でもがき苦しんでいた当時、稀勢の里と酒を酌み交わしたことがある。かつての師匠である鳴戸親方(元横綱隆の里)の教えで、普段からあまり酒を口にしないという稀勢の里だったが、その日は後援者へのサービスもあってか、カラオケで美声を披露した。

   その時、稀勢の里が熱唱したのはパンクロックバンド、ブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」(トレイン・トレイン)だった。当時、横綱昇進を期待されながらも幕内優勝が出来なかった稀勢の里は、歌詞に自身の思いを乗せたように熱唱していたのが印象的だった。

   横綱昇進後、8場所連続で休場したことから休場のイメージが強いが、実際、稀勢の里は「休場しない力士」だった。初場所から横綱昇進まで休場したのはわずか1度で、それも千秋楽に1日休場しただけだった。

   そんな屈強な体の持ち主もケガには勝てなかった。横綱に昇進してからは、ケガをしても完治しないまま土俵に上がり続け、結果、ケガが悪化するという悪循環に陥った。横綱に言い訳は許されない。これこそが角界の屋台骨を支える横綱の宿命なのだろう

   土俵上で常に険しい表情で相手と対峙し、負けた日の支度部屋では無言を貫いた稀勢の里。大関時代、酒の席でパンクロックを熱唱していた稀勢の里。どちらも同じ稀勢の里だった。ボロボロの体で土俵に立ち続けた32歳の横綱が、ついに土俵に別れを告げる。

(J-CASTニュ-ス編集部 木村直樹)

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