2021年 3月 1日 (月)

シベリアに眠る父の埋葬地は、ゴミ捨て場と化していた【71年目の死亡通知】(上)

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衝撃の墓参

   埋葬地とされる場所は、ロシア人の墓地に囲まれていた。だが、そこだけが窪地になっていて、汚水がたまり、ペットボトルや古タイヤ、廃棄物を詰め込んだビニール袋、古い墓石、色あせた花輪、折れた木の枝などが散乱し、ゴミ捨て場になっているではないか。

筆者の父の埋葬地「第4865特別軍病院・第1墓地」
筆者の父の埋葬地「第4865特別軍病院・第1墓地」

   厚労省のホームページにある「埋葬地別名簿」で、「第4865特別軍病院・第1墓地」の項をみると、名簿に載っている埋葬者数は225人で、うち90人の遺骨が収容されたと記されている。だとすると、ゴミの下にはまだ、差し引き135人もが眠っていることになる。

   厚労省の担当者の口ぶりから、多少は荒れているかもしれない、と覚悟はしていた。しかし、100人を超す遺体が残されているのに、ここまでひどい状態で放置されているとは、思いも寄らなかった。

   気を取り直して、優子さんとご亭主のアンドレイさんの案内で市場に行き、リンゴの木とツツジ、それに菊の花をもとめ、墓標の代わりに埋葬地の空き地に植えた。ツツジと菊はいつの間にか消えてしまったが、リンゴの木だけは枝を折られながら、いまも根を張り続けている。

   父が出征(戦時中、召集令を受けて軍隊へ入ることをこう言った)したとき、私は7歳で小学1年生だった。幼いころのことを鮮明に覚えている人がいるが、なぜか私に父親についての特別な思い出はない。あの頃は「産めや、殖やせや」の時代で、子供がごろごろいて、どこの子も今ほど親にかまってもらえなかったような気がする。父は東京の大学を出て地元の電力会社に勤めていたが、働き盛りで子供の相手をするひまがなかった、ということもあるかもしれない。

   父と親しかった人たちからは、「病気で入院したりすると連日見舞いに来てくれるような優しい人だった」と聞いた。こっぴどく叱られたことでもあれば、頭に焼きついて離れないだろうが、そんな記憶もない。黒縁のまん丸い眼鏡をかけていたことは、ぼんやりと覚えているが、忘れられない思い出がないというのはさびしい。

ロシア語のカルテ
ロシア語のカルテ

   しかし、「戦死公報」が伝えられると、否応なしに父の存在の大きさを思い知らされることになる。父の死が確定したことで、私たち家族は盛岡の電力会社の社宅を出て、父の実家がある花巻に転居することになった。小学5年生になっていた私は転校となり、母は3人の男の子を育てるために働きに出なければならなくなった。

   あるいは、この生活環境の激変がトラウマになり、思い出したくない過去として、幼いころの記憶を意識の底に閉じ込めてしまったのかもしれない。

   それにしても、中年になって兵隊に駆り出され、食うや食わずで死に追いやられたすえに、異郷でゴミの下に置き去りにされるとは、父も夢にも思わなかったに違いない。墓参からもう3年半近くになるが、ウスリースク市郊外の父の埋葬地を思い起こすたびに、いくらなんでも、あれはないだろう、と怒りがこみあげてくるのを抑えることができない。

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