2024年 4月 24日 (水)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(16)メディアの報道に今、必要なこととは

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   コロナ禍が広がって以降、テレビや新聞報道は、豪雨災害や戦争特集を例外として、新型コロナ一色に染まった。しかし関連情報があふれる一方で、肝腎の核心情報が、十分に届いているとは思えない。メディアは市民の情報ニーズに応えているのか。メディアの当事者や専門家と共に考える。

  •            (コラージュ:山井教雄)
               (コラージュ:山井教雄)
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報道機関としての四つの機能を果たしているか

   新型コロナが拡大し始めてから、新聞・テレビなど大手メディアやネットメディアは、連日のようにコロナの新規感染者数や死者数、政府や自治体の対応策や、その影響などを詳細に報じている。だがそれは、多くの場合、コロナ禍によって生じた「事象」の報告や「町の声」といった反応などの「関連」情報に留まる。それは押しなべて、メディア横断的に各社が流しているニュースで、どのメディアに接触しても得られる結果は横並びだ。

   それらと区別して、私が「核心情報」と呼ぶものは大きく言って四つある。

1 「いま直面している問題は何か」を、刻々と変わる情勢において、そのつど定義する情報

2 「いま、何をなすべきか」という選択肢を市民や自治体に示し、行動や判断の参考にしてもらう情報

3 政府の施策の成り立ちと効果の有無を批判的に検証する情報

4 専門家同士に議論の場を提供し、現時点での論点を整理し、問題の在りかを解明するための情報

   この四つは、それぞれ言論機関の1アジェンダ設定機能、2行動・判断指針の提示機能、3検証・調査報道機能、4言論フォーラム形成機能という行動態様を示している。

   一言でいえば、コロナ禍報道は今のところ、起きた事象の後追いをするのが手いっぱいで、こうした言論機関本来の機能は十分に果たしていないのではないか、というのが私自身の感想だ。

   この問題提起をどう受け止めるのか、真っ先に聞いてみたい方がいた。

澤康臣専修大教授に聞く

   その方とは、2020年4月から専修大教授(新聞学)になった澤康臣(さわ・やすおみ)さん(53)だ。8月1日、澤さんにZOOMで話をうかがった。

   共同通信の社会部、外信部、ニューヨーク支局などを経て特別報道室で調査報道を担い、2006~07年には英オックスフォード大ロイタージャーナリズム研究所の客員研究員も務めた。今も共同通信客員編集委員の肩書をもつ。

   2016年4月4日、世界の100を超える報道機関が一斉に、タックスヘイブンのパナマで、匿名法人の設立を代行する大手法律事務所「モセック・フォンセカ」からの流出文書の内容を報じ、かかわった政治家や著名人の名が明るみに出た。この「パナマ文書」を報じたのは、世界各国の調査報道記者が作る「国際調査報道ジャーナリスト連合」(ICIJ)と、各国の協力メディアが連携した400人近い記者の集まりだった。その連合プロジェクトに、共同通信から参加したのが澤さんだった。つまり、国内の調査報道だけでなく、国際報道でも各国の記者と連携協力した経験があり、国際スクープの舞台裏を描いた「グローバル・ジャーナリズム」(2017年、岩波新書)という著書もある。世界で同時進行するコロナ禍をどう報じるべきか、ぜひとも話を伺ってみたい、と思った。

   現場取材から研究教育の場に拠点を移したこの4月は、まさにコロナ禍が広がる時期に重なった。「ジャーナリズムの実務と倫理」というテーマで、担当するゼミも、できるだけ「現場」を踏んで「現場」から考える内容にしたかったが、今は講義もオンラインに移行し、思うに任せない日々が続いている。しかし、講義の途中でもどんどん学生がチャットで感想を書き込む機能を使うと、「SNSで記者が叩かれるのが悔しい」とか、「裏取りをして取材する大切さがわかった」などの反応が寄せられ、普通の講義よりもライブ感があふれることに気づいた。

「ふだんは発言したいと思っても、こんなことを言えば笑われるのでは、という恐怖感が勝って、何も言わないのかもしれない。オンラインにも、優れた点があると気づいた」

   コロナ禍報道について質問すると、澤さんは、各国の記者10数人が集まって1年間にわたり、ジャーナリズムとメディアの「現在地」について研究し、語り合ったロイタージャーナリズム研究所の体験談から語り始めた。司法クラブのサブキャップを終えた直後に渡英したが、外国のジャーナリストとの違いを強く意識させられたという。

「日本では長時間労働が当たり前で、前打ち報道に命を懸ける。外国の記者は、やるときはやるが、普段の労働時間は短い。見出しの次にバイライン(署名)が来るから、個人の仕事であることに誇りを持っている。加盟紙が、配信した共同通信の社名すら使わないこともある日本とは大きな違いだと感じた」

   会社員にはすべて当てはまるのかもしれないが、日本のジャーナリストもまた、同じ会社に属して勤めあげることが多い。組織への帰属意識が強く、身の処し方にもサラリーマンの側面が出やすい。会社を渡り歩くことの多い外国のジャーナリストは、社内の会議も少なく、飲食も他社や異業種の人と共にすることが多い。

   もう一つ、外国の記者と語り合って強く感じたのは、災害や事件事故報道で、日本の記者は数字の確認に極めてシリアスで、訂正を恐れるという点だ。外国の記者はhundreds of thousands(数十万)という表現も平気で使うが、日本では公的機関が確認した厳密な数字しか使えない。

「今回のコロナ報道にも言えるが、間違えずに正確な数字を報道するということに、ものすごいエネルギーを使い、創意工夫をする余力がない。いま何が大切で、それをどう伝えれば読者に届くのか。新たな試みをしようとしても、失敗したり、叩かれたりするのではないか、と恐れる。自分の反省をこめていえば、その結果、既成メディアの報道が総じて横並びになり、読者や視聴者のニーズに応えていないということが起きていると思う」

   ネットとスマホの普及で、情報の出所や入手経路は既存メディアからSNSに大きくシフトした。SNSは人によって、関心を持つ対象によって、入手したり発信したりする情報は千差万別だ。そうした多様化したニーズを既成メディアが拾い上げる回路が細い。

   その点では、刻々と視聴率が出るテレビの情報番組の方が、ニーズを探り当てることに長けている。だがそれはダブルエッジ、諸刃の剣だ。人気のある流れに掉さし、本来問題にすべきテーマよりも、その時点での人々の関心に沿って番組を制作することにもなりかねない。

取材源への「密着」度合をどうするか

   澤さんが長年気になっていたのは、日本の記者が持ち場のことを役所名で呼ぶ慣行だ。

   「教育」ではなく、「文科省担当」と呼び、福祉や労働問題ではなく、「厚労省担当」と呼ぶのが普通だ。

   欧米では、バイラインの記者の肩書として「健康担当」とか「消費者担当」あるいは「法律担当」というように、扱うテーマを書くことが多い。

   これは単なる呼称の問題ではない。記者は、担当する役所のカバーをしっかりすることを優先させ、役所の情報を報じているのか、福祉衛生の問題を報じているのか、わからなくなりがちだ。

「役所の情報をいち早く取ることで競い合えば、当局目線になり、世の中の不安や心配、恐怖、関心からずれてしまう。そうしたニーズに応えるより、自分が役所から知り得た情報を優先させる結果になってしまう恐れがある」

   そうした長年の慣行が続けば、役所への「密着」が、「癒着」の弊害を招くこともある。もちろん、これは日本に限ったことではない。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という密着取材は、米国では一部の有力な報道機関が「インナーサークル」という「内輪」の親密なグループを形成し、表に出ない当局の情報を「特報」するという形で表れる。「だが、そこには狎れ合いではなく、一線を画する職業倫理があるようにも思う」と澤さんは言う。

   澤さんは、2016年、アメリカ調査報道記者編集者協会(IRE)の大会に出席した。これは4日間にわたり、約200の講座で、記者が1800人の記者を相手に取材の手口やノウハウを教える大会だ。その時に、連邦捜査局(FBI)担当のニューヨーク・タイムズ記者から聞いた言葉が忘れられない、という。

「ネタ元とはお茶を飲み、食事をし、飲みにも行く。だが、正しい報道をするために、ソース(取材源)を失うことを恐れない」

   もちろん、きれい事ばかりではないだろう。しかし「建前」にせよ、そう断言するだけの職業倫理があるのだと感じたという。

報道の「幕の内弁当」化

   インターネットやSNSの普及と並行して日本のメディアに起きたことは、報道の「幕の内弁当」化だと澤さんは指摘する。

   読者や視聴者が知りたいことよりも、他社が報じることを落とすまいという意識が先行する。個性的であることより、他社と比べて目立ち過ぎないように気を遣う。

   とりわけ、新聞が何度も活字を大きくした結果、文字数がどんどん削られ、記事が一口サイズになった影響が大きい。

「記者からすると、10行でも200行でも、取材には同じ手間がかかるが、総じてコンパクトにフルセットで情報を提供するという傾向が強まった。卵焼きも鮭も、漬物もあります、というわけです。しかし、すべてのメディアが同じことをすれば、多様化する読者の関心には応えられず、飽きられてしまいかねない」

   澤さんは、デスク時代に、「こんな記事を、だれが読むのでしょう」と記者に聞かれ、「他社にはない、こんなネジまで揃っているということを見せるのが通信社だ」と答えたことがある。そのことは、今も間違っていないと思う。だが同時に、他社を意識して、全社が同じように品ぞろえをしようとすれば、新聞は個性を失い、「幕の内弁当」化に拍車がかかるという。

エッセンシャル・ワーク

   コロナ禍が広がり、記者の仕事も、現場に行ったり対面取材をしたりという現場取材から、オンラインに移行しつつある。私の現役時代には、取材は対面が原則で、電話やメールを使った取材では、必ず「電話で」「メールで」と明記することになっていた。

   だが、コロナ禍以降、そうした断り書きを見た記憶がない。そもそも、ジャーナリストという職業は、医療や介護、公共交通機関やゴミ収集、スーパーや薬局の運営を担う人々と同じように、現場に行かねば成り立たない仕事ではなかったのか。取材相手が感染を恐れて対面を拒む場合は別として、現場や相手の居場所に出向く「エッセンシャル・ワーク」ではなかったのか。そうした私の質問に、澤さんはこう答えた。

「読者には取材の手法や経過を、可能な範囲で、できるだけ正直に情報を開示する必要がある。ただ、一つの記事が40行しかない『幕の内』のパーツに、『ZOOM』という4文字を使えば、それだけ情報量を削らねばならない。エッセンシャル・ワークという点はその通りだが、記者も出社はしないが、できるだけ対面取材をしたり、現場に出向く努力はしていると思う」

   澤さんの言葉に納得したが、私にはもう一つ別の懸念もある。2004年にイラクで起きた日本人人質事件で「自己責任論」が強調されて以降、政府の指示や勧告に従わないことを非難する風潮が高まり、トラブルを避けたいメディアも取材を萎縮する傾向が出てきた。2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発事故のあと、原発から半径20~30キロメートル圏に設定された「緊急時避難準備区域」にあたるとして、南相馬市の原町区から報道各社が記者を引き揚げた時にも、「政府指示に従う」というメディア側の暗黙の協調姿勢を感じた、報道機関としては、かりに政府の指示があっても、残された数万人の市民の声を伝える責任があったのではないだろうか。今回のコロナ禍で、政府が要請した「3密回避」や「外出自粛」に無条件で従うなら、「エッセンシャル・ワーク」の責任を果たせないのではないだろうか。これについて、澤さんはこう話した。

「本来のジャーナリズムは、何をやってはいけないか、ではなく、何ができるか、やってみせよう、という精神だろう。テレビで『許可を得て取材しています』と断り書きのテロップを流すのは、おかしい。取材は許可の有無ではなく、必要かどうかで判断すべきものだと思う。この情報は皆さんのお役に立てる、と言えるかどうかが、判断の分かれ目。よく取材先から、『マスコミにサービスする必要があるのか』と言われたことがあったが、『いえ、これはマスコミが儲けるためではなく、市民のためなんです』と答えた。リスクを取ってでも、パブリックのために重要な取材をして、現場で確認する。それがジャーナリズムの根幹なのだと思う」

   反権力・反権威の感情が支配的だった時代は、「政府に逆らってでも」という取材活動は説明しなくても市民に支持されたかもしれない。しかし、「政府に従うのは当たり前」という感情が生まれがちな時代には、メディアの側があえて取材をする理由について、きちんと説明すべきだろう、と澤さんは言う。

「メディアでも『コンプライアンス重視』はやかましく言われるようになってから、『世間に叩かれない』という方針で、『苦情が来ないように』という傾向が強まったような気がする。きちんと理由を説明すれば、多くの人はわかってくれると思う」

   最後に澤さんに、コロナ禍は取材やメディアの在り方を変えるかどうかを尋ねた。

「ZOOM会議やZOOM取材など、省けるものは省く、という傾向は続くだろう。ただ、新型コロナは喋るとうつる、長く、近くにいて喋るとうつす、という厄介な感染症だ。挨拶のキスもハグもだめ。つまり、新型コロナは、『コミュニケーション』を奪うウイルスだ。これは本質的に、ジャーナリズムにとってはピンチの事態だろう。中学や高校の物理で、『空気抵抗はないものとみなす』という前提で計算することを教わったが、現実の世界には空気抵抗がある。それと同じで、対面には空気感の共有や特発的な共鳴など、オンラインでは得られないものがある。絶対会ってくれなかった人が、訪ねてみたら会ってくれたなど、人と人の出会いでは一瞬の奇跡が起きる。便利なツールは使いこなしながらも、そうした取材の原点を忘れないようにしたい」

南彰・新聞労連中央執行委員長に聞く

   8月2日、新聞労連の中央執行委員長を務める南彰さん(41)に、ZOOMで話をうかがった。南さんに話を聞いてみたいと思ったのは、コロナ禍の渦中で起きた「賭けマージャン」問題をきっかけに、7月10日、南さんら発起人6人が呼びかけて「ジャーナリズムの信頼回復のための提言」を出したからだ。この声明には、現役の若手、女性記者も多く賛同人に名を連ね、メディアの現状に、働き手がいかに危機意識を抱いているかが、うかがわれる。

   「賭けマージャン」問題とは言うまでもなく、東京高検の黒川弘務検事長が、緊急事態宣言が出ている5月初旬、産経新聞記者と次長、朝日新聞社員の計4人で賭けマージャンをしていたという問題だ。週刊文春が5月29日に報じて発覚し、黒川氏の処遇をめぐって国会に提出していた検察庁法改正案の成立を政府が断念し、黒川検事長は辞任した。

   産経は6月16日、関係者の処分を発表すると共に、弁護士を含めた「社内調査」の結果を紙面で報告した。それによれば産経新聞の次長と記者は、5年ほど前にマージャンの場で朝日新聞社員と知り合い、3年ほど前から月に2、3回、固定したメンバーで、卓を囲むようになった。2年前の9月に記者が卓を購入し、その自宅に集まるようになった。緊急事態宣言下では7回、同じメンバーで集まり、少なくとも4回は夕方から翌未明まで、現金を賭けてマージャンをしたという。

   同紙は、外出自粛を呼びかけていた新聞社の記者がこうした行為をとったことを「不適切」と判断し、「新聞記者の取材」に対する読者の信頼感を損ねることを認めた。さらに、取材対象への「肉薄」は、「社会的、法的に許容されない方法では認められず、その行動自体が取材、報道の正当性や信頼性を損ねる」と、反省点を明確にした。

   他方の朝日は6月20日付朝刊で、「私たちの報道倫理再点検します」という文章を載せたが、詳しい経過報告はしなかった。同紙は、報道の公正性や独立性に疑念を生じさせたことをおわびし、記者行動基準の見直しを宣言した。だが、社員の「不適切な行為」のどの点を、なぜ問題だと判断したのかは明確ではない。

   今回の提言は、「賭けマージャン」は産経、朝日だけの問題ではなく、日本のすべてのメディア組織の職業文化の根幹を問うものだ、として、次のような慣行を挙げる。

   取材対象と親密な関係になることは「よくぞ食い込んだ」と評価され、記者会見という公開の場での質問よりも、情報源を匿名にして報じる「オフレコ取材」が重視されている。

   発表予定の情報を他社より半日早く報道する「前打ち」記事が評価され、逆に他社報道 に遅れを取れば「特落ち」という烙印を押される。

   そして、「賭けマージャン」は、オフレコ取材での関係構築を重視するあまり、公人を甘やかし、情報公開の責任追及を怠ってきた結果だ、と自己批判する。また、こうしたことは、メディア不信を招く官邸記者会見の質問制限問題、財務事務次官による取材中の記者へのセクハ問題に通じる、日本のメディアの取材慣行や評価システムに深く根ざした問題だという。

   こうした前提のもとで、具体的に示したのが、次の6つの提言だ。

1報道機関は権力と一線を画し、一丸となって、あらゆる公的機関にさらなる情報公開の徹底を求めるべきである。記者会見など、公の場で責任ある発言をするよう求め、公文書の保存と公開の徹底化を図るよう要請するべきだ。市民やフリーランス記者に開かれ、外部によって検証可能な報道を増やすべく、組織の壁を超えて改善を目指すべきである。

2報道機関は、社会からの信頼を取り戻すため、取材・編集手法に関する報道倫理のガイドラインを制定し、公開する。

3報道機関は、社会から真に要請されているジャーナリズムの実現のために、当局取材に集中している現状の人員配置、およびその他取材全般に関わるリソースの配分を見直すべきだ。

4記者は、取材源を匿名にする場合は、匿名使用の必要性について上記ガイドラインを参照する。とくに、権力者を安易に匿名化する一方、立場の弱い市民らには実名を求めるような二重基準は認められないことに十分留意する。

5現在批判されている取材慣行は、長時間労働の常態化につながっている。この労働環境は、日本人男性中心の均質的な企業文化から生まれ、女性をはじめ多様な立場の人たちの活躍を妨げてきた。こうした反省の上に立ち、報道機関はもとより、メディア産業全体が、様々な属性や経歴の人を起用し、多様性ある言論・表現空間の実現を目指す。

6これらの施策について、過去の報道の検証も踏まえた記者教育ならびに多様性を尊重する倫理研修を強化すると共に、読者・視聴者や外部識者との意見交換の場を増やすこと によって報道機関の説明取材源責任を果たす。

   この「提言」が、これまでの批判と異なるのは、賭けマージャンの根源には、「取材源と親密になってオフレコで情報を取る」という慣行が長く続き、それが記者会見など公の情報公開の形骸化を招いていることを、率直に認めていることだろう。また、取材源も取材側も男性優位の均質集団を形成しており、それが形を変えて女性記者へのセクハラとなっていることも指摘する。

   少なくとも、「賭けマージャン」問題の本質に、率直に向き合った声明のように思える。

「メディア不信」への危機感

   今回の声明を呼びかけた理由について南さんは、「どうしたら信頼されるメディアとして再構築するかが問われているのに、各社の対応は対症療法に終わっている」という。

   「今のメディアの上層部にいる人たちは、昔ながらの取材慣行で勝ち残り、『取材源への密着』という成功体験から逃れられない」とも指摘する。実際、今回の声明に実名を連ねた現役記者たちは、若い世代や女性が目立つ。彼らのエネルギーに背中を押された、と南さんは言う。

「産経は検証結果として、取材源への『肉薄』は、『社会的、法的に許容されない方法では認められず、その行動自体が取材、報道の正当性や信頼性を損ねる』と言って、認められない一線を引こうとした。朝日はガイドラインを見直すというが、どう見直すか、見えてこない。きちんと説明できなければ、さらに信頼を失う」

   ちなみに南さんは朝日新聞労組の出身。02年に朝日に入社し、仙台、千葉、東京編集センターなどを経て東京本社政治部での取材が長い。この7月に「政治部不信権力とメディアの関係を問い直す」(朝日新書)を上梓したばかりだ。

   私が声明で特に注目したのは、これまでの取材慣行が、男性優位の同質集団を前提としていたことを指摘した部分だった。その点を尋ねると、南さんが答えた。

「メディアは24時間、記者を拘束する職場といわれたが、これは専業主婦に支えられた男性を前提にしたシステム。多くの女性はそのシステムから排除されてきた。メディアは本来、多様な経験、多様な価値観を反映するべきなのに、当局にべったり取材できる記者を優先させてきたのではないか」

   それは、今のコロナ報道でも変わらない。官邸記者会見では、首相が台本を読み上げ、記者は異議を唱えようともしない。会見が形骸化し、当局の情報を一方的に流す場になってしまっている、と南さんはいう。「これも、オフレコ取材が優先、という長年の取材慣行の帰結です」。

   政府による自粛要請についても、政府のデータを一方的に拡散するのではなく、きちんと発表データを検証し、市民の自由をどう維持するのかを問うのがメデヴィアの役割のはずだ。だが、ここ半年間の報道では、それができていなかった、と南さんはいう。

   逆にいい例として南さんが指摘するのは、調査報道とファクトチェックを看板とする独立系ニュース。サイト「インファクト」(立岩陽一郎編集長)の楊井人文共同編集長が、東京都の緊急事態宣言下の新型コロナの入院患者数や病床確保数を検証し、都が実態と大きくかけ離れたデータを公表していた問題を指摘したケースだ。

「各社は都庁クラブに相当な数の記者を配置している。同じ工夫をすればチェックできたはず。各社が独自に検証すれば、情報の質が変わってくる」

   この間、注目を集めたのがテレビ局の情報番組だった。その点について南さんは、「各局に専門家が出演し、それなりに視聴者のニーズに応えていると思うが、専門家同士がきちんと議論する場を設定すべきだと思う。各番組がばらばらに違う専門家の見方を紹介することが、かえって混乱を招いていないだろうか」

   権力や政権が設定するルールに、メディアが従う傾向については、南さんも同意する。だがその背景には、市民から信頼され、支持されているというメディアの確信が揺らいでいるからでは、という。

「権力側が設定するルールと、メディアからの要請との間には、常に緊張関係があるべきでしょう。もし権力が恣意的にルールを設定するなら、メディアは踏み込んでもいい。ただ、そうするには、メディアが市民から支持される環境が必要だと思う。そのためには、つねにメディアが、何のために、どんな理念に基づいて取材・報道しているのかを、きちんと説明することが必要だ。バッシングや炎上を恐れるだけでは、今の状況を抜け出せない。商売のためでなく、情報を皆さんに届けるために取材しているのだということを、ことあるごとに丁寧に説明する必要があります」

   今回のコロナ禍で目立ったのは、黒川検事長の辞任に見られるように、SNSで発信された「世論」が現実を動かすという事態だ。既成メディアは、台頭するSNSとどのような関係を築くべきだろうか。

「既成メディアは、市民とどう対話するか、ソーシャル・コミュニケーションの力を高めるべきです。これまでは、自分たちが必要と思ったことを一方的に押し付ける傾向にあったが、市民の声を聴いて、議論を巻き起こす。編集幹部が記事の狙いを発信し、オンラインで読者と記者が対話するくらいの覚悟が必要だと思う」

   SNSの台頭や購読者の減少、広告の減収もあって、既成メディアは相対的に発信力や影響力が低下している。既成メディアはこの危機に、どのように対処すべきだろう。

「今回の提言も、何とか現状を変えてほしいという若手や女性記者の悲痛な叫びが原動力になっている、上層部が惰性でやってきたことに異を唱える人たちは、読者に近い感情を抱いているのだと思う。上層部が自ら意識を変える。それができなければ、思い切って権限を現場におろす。そうしなければ、どんどん時代とずれていくと思う」

   今後、既成メディアも事業規模の縮小に伴い、人員配置の見直しを迫られるかもしれない。だが、これまでのように役所重視の人員配置を続け、他を削減するようなことがあれば、読者の信頼や支持を回復することはできないだろう、と南さんはいう。

「ZOOM取材が当たり前になり、距離が離れた人にもより簡単にアプローチできるなど、取材現場も大きく変わりつつある、当局取材に依拠してきた取材慣行を改め、コロナ禍に立ち向かう価値観に基づき、新たな人員配置や評価システムを作ることが必要です。それに、会社を越えたメディアの連携も模索すべきでしょう」

   新聞労連は今年3月8日の国際女性デーに向けて、会社の枠を超えて有志がメーリング・リストなどで議論を深め、国際女性デーの前後に、各社が独自の記事や特集を組んでゆるやかに連携するという試みに挑戦した。

   これは、澤さんらが参加したICIJの取材のように、有志のジャーナリストが協力して取材し、その結果を一斉に、しかも独自に報じて国際的なキャンペーンを展開するという手法に通じる新たな試みといえる。

佐藤卓己・京大教授と考える

   8月3日、歴史や社会学などの角度から、メディア論を広範に研究し、著作も数多い佐藤卓己・京大教授にZOOMで話をうかがった。

   佐藤さんは「輿論と世論 日本的民意の系譜学」(新潮選書)などの著書を通じ、「輿論」と「世論」の違いを明確にしてきた。戦前には、公的意見を「輿論」、大衆感情を「世論」と呼んで明確に区別していたが、戦後はさまざまな出来事を通してその違いが見失われ、「輿論の世論化」が進行して今に至る、との見方だ。その佐藤さんの目に、コロナ報道はどう映っているのだろう。

「一言でいえば、必ずしも読者や視聴者のニーズには応えきれていないと思う。テレビの情報番組では、パブリック・センチメントという『世論』には応えているが、『輿論』を形成しているとは言えない。では新聞が、『輿論』を形成しているかと言えば、物足りない。アフター・コロナの時代をどう生きるのか、という長期的な視点や、世界的な感染拡大を常に視野に据えるというグローバルな視点では、まだまだだと思う」

   日本のコロナ報道では、初期には中国や韓国などアジアでの取り組み、その後は、日本のモデルケースともなる欧州の事例などを取り上げたが、その後はこうした世界的な広がへの目配りが乏しくなり、もっぱら関心は国内に移った。都道府県別に感染者数や防止策を取り上げることは必要だが、いまは、その繰り返しになってはいまいか、と佐藤さんは問題を投げかける。

   だが、メディア史からいえば、今起きている問題は、より根源的な変化だろうと佐藤さんは指摘する。

   佐藤さんによると、米国のニュー・ハンプシャー大でコミュニケーション論を教えるヨシュア・メイロウィッツ教授はかつて、「No Sense Of Place」という著作を出版した(邦訳「場所感の喪失 電子メディアが社会的影響に及ぼす影響」、新曜社)。これはテレビを論じた研究だが、それまでの活字文化との違いを明確にした点に意味がある、と佐藤さんはいう。

「ここにいう『場所感』は『距離』と言い換えていい。かつて英国のコーヒー・ハウスは市民的公共性の原点と呼ばれた。それは、備え付けの新聞を回し読みし、そこで議論をするという習慣が作られたからです。ここでいう『距離』は。身分であり権威でもあった。新聞を購読したり、コーヒー・ハウスで議論したりする「市民」は財産と教養のある一部に限られていた。女性も子供も労働者もいない場所だった。一方、誰にも届く電子メディアは『距離』をなくし、身分や権威を排除した。つまり、情報の『民主化』は起きた、と言っていい」

   ヒトラーは、当時登場したラジオを使って国民に直接呼びかけ、かつてドイツを支配した伝統的エリート層を排除した。「つまりラジオがもつ『情報の民主化』というツールを使って、距離をなくし、中間集団の身分や権威を否定する。ヒトラーは大衆の中に入って女の子を抱きかかえ、それを映像に撮らせた。ナチズムは、大衆との距離をなくし、独裁者が大衆と直接結びつくドイツ型ファシズムだった」

   かつて佐藤さんは、ジョージ・L・モッセの著書「大衆の国民化 ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化」(柏書房)を共訳したことがある。ここにいう「大衆の国民化」は、ヒトラーの「我が闘争」に出てくる言葉だ。ラジオを使って狂信的なまでに愛国心を煽り、教養人や読書人を排除して、「国民」として一体化させる。ファシズムは伝統や権威に訴えて権力を握ったのではなく、「民主化」を叫んで政権を取った。その逆説を忘れてはならない、と佐藤さんはいう。

   新たなメディアを使って「情報の民主化」を図り、支持を集めるとい点では、ツイッターを駆使するトランプ米大統領にも、似たところがある。「メディアがファクトチェックで大統領のつぶやきに誤りがあると指摘しても、支持者は、大統領との距離感がないことを魅力的と考えるだろう」と佐藤さんは指摘する。

「社会的距離」とは何か

   その後もメディアはテレビ、インターネット、SNSへと進化を続け、「距離」の壁ばかりか、「時間」の壁を越える社会が実現した。

   新聞は、誰かが宅配で自宅や職場に届け、読者がそれを回し読みするという「距離」の特性を残したメディアだ。デジタル化が進むにつれ、購読者や広告が減っていくと、新聞社はデジタル化に力を入れ、「距離をなくす」ことに力を入れた。だが、それは正しい道だったのだろうか。

   コロナ禍によって、突如として「社会的距離」「物理的距離」の復活が叫ばれるようになった。感染の不安に鋭敏な人々は配達される新聞に不安を感じたり、回し読みすることを避けたりするようになった。これは、紙という物理的特性に依拠する新聞にとっては、ある意味で深刻な脅威だ。この先は、ZOOMなどを使ったテレ会議、テレ取材に移行する機会も増えるだろう。だが、「距離感」を残すメディアとしての新聞は、さらに「距離」をなくす方向に進むべきなのだろうか。

   そうではない、と佐藤さんは言う。

   最近佐藤さんは、地域振興政策の担当者から、「コロナ後の観光の在り方」について意見を聞かれた。これまでの文化政策は、京都に残る文化資産や昔ながらの景観を映像に撮り、ネットで発信して観光客を呼び込むというように、ここでも「距離なくす」ことに主眼を置いてきた。

   「しかし、京文化は、天皇が御簾の陰で言葉を発したり、公家が扇子で口元を覆いながら話すなど、まさに『距離』を置いて、身分や権威を再認する装置だった。『社会的距離」が叫ばれるいまは、そうした伝統的な『距離』に基づく文化を見直し、『距離』の意味を問い直すことも必要ではないか」と佐藤さんは助言したという。フェイスブックやツイッターで情報を発信し、誰にでも親しまれる観光を目指すのではなく、「距離」を超えるには手間暇がかかるが、そこに行けば本物に会える、という価値観を据えてはどうか、というアドバイスだ。

   佐藤さんは、新聞というメディアについても、同じことが言えるだろうという。

「『社会的距離』が叫ばれる時代に、『距離をなくす』というデジタル化の文化を推し進めることがいいのか、新聞は考えるべき時期に来ていると思う。すぐには検索できない。だが、政権や官僚との『距離』を保ち、流行から一歩離れた長期的な視点や価値観を問う。新型コロナウイルスは国境を超えるが、感染対策はむしろ国境を閉ざし、新たなナショナリズムの勃興をもたらすのかもしれない。そうした新たな問題に着目し、議論を深めることが、『コロナ後』の新聞、「距離なき時代の距離のメディア」の役割ではないでしょうか」

   小手先の対応よりも、文明史や世界観の軸をもってコロナ禍に向き合うこと。佐藤さんの話をうかがって、その大切さを実感した。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。

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