2024年 4月 26日 (金)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(28) 欧州のペスト禍は社会や文化をどう変えたか

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イタリア文学者・澤井繁男さんに聞くルネサンスの光と影

   同じ12月6日、大阪に住むイタリア文学者の澤井繁男さん(66)に話をうかがった。澤井さんは東京外語大のイタリア語学科を卒業し、京都大学大学院文学研究科を修了し、東京外大で論文博士号(学術)を取得。昨年まで長く関西大学で教授を務めた。歴史家の石坂さんとは違って、文学作品を通してイタリア・ルネサンス文化論を研究し、トンマーゾ・カンパネッラなどの翻訳や、ルネサンス研究書など多くの著書を発表してきた。なお今年4月に水声社から刊行されたカンパネッラの「哲学詩集」全訳は今年度、日本翻訳家協会が主催する「翻訳特別賞」を受賞した。

   疫病がルネサンスに与えた影響について、澤井さんが真っ先に挙げた例はボッカッチォの「デカメロン」だった。

   「デカ」はギリシア語で「10」、「メロン」は「日」を指すという。この物語は、若い淑女7人と青年紳士3人が、フィレンツェ郊外の館で延べ10日間にわたり、1日に1話、合わせて100話を仲間に語って聞かせるという構成だ。そこでこの物語集は「十日物語」として昭和2年日本に紹介された(英文学者・戸川秋骨による英訳からの重訳)。

   ボッカッチォがこの物語を書いたのは1351年だったが、物語の設定は1348年、フィレンツェをペスト禍が襲った年にしてある。7人の淑女はペスト禍を避けるために郊外に赴き、知り合いの3人の青年紳士は、その身の安全を守るために随行するという成り行きだ。

   その「第一日まえがき」には、ペスト禍に襲われた人々の断末魔の苦しみや、難を避けるために社交を絶って閉じこもる人、将来を悲観して放縦に走る人など、「日常」が崩れる災厄に直面して人間が見せる様々な側面を、写実的に、臨場感あふれる筆で描いている。

   ボッカッチォは「まえがき」にこの酸鼻なペスト描写を置くことについて、「重苦しい不快な印象を与える」(河出文庫「デカメロン」平川祐弘訳)という懸念を抱きながらも、「苛烈で峻嶮な山」の向こうには、「すばらしく美しい野原が一面にひろがります」といって、読者を物語世界に誘う。

   だがなぜボッカッチォは、この物語に「ペスト禍」という黒い額縁をはめたのか。

   私の疑問に対し、澤井さんは、「価値観の転倒(パラダイム・シフト)」を図り、新しい時代意識で筆を進めるための仕掛けだったろう」と即答した。

「霊魂ではなく、ペストによる急激でむごたらしい『肉体の死』を綿々と綴ったのは、冒頭で読者に強烈な衝撃を与えなければならなかったからでしょう。ペストを導入することによって、作品の場として、価値の転倒した社会という場を想像した。つまり『来世肯定』から『現世肯定』である。価値の転倒した社会という前提があってはじめて、当時の社会の実相でありながら、一見『反社会的』とみられがちな生と性を思う存分描くことができた」

   作家として多くの小説を発表してきた澤井さんはそう指摘する。

   「デカメロン」は「好色」や「肉欲」を赤裸々に描いたと評されることもあるが、澤井さんは、物語の背後に冷厳な死に対する認識が働いていることを見落としてはならない、という。

「死の世界を一方に意識することによって、生の方向はいっそう客体化される。死の視線を通して見られた生の世界は、生に対して貪欲であればあるほど、また性をむさぼればむさぼるほど、虚無的になる。『デカメロン』の生の世界は、虚無的視線があって初めて成立する。死に対する視線で濾過されて描かれた生だからこそ、なおさら鮮明になる生であり性なのだと思う」

   たしかに、語られる物語はきわどい話も多いが、不思議に晴朗で、曇りや濁りを残さない。一日の終わりに一行が連れ立って庭を散策する場面などが挟まると、悲喜劇はすべて浄化され、話の面白さや人の愛すべき滑稽さ、たくましさ、偉大さだけが、心地よい澄明さで心に残る。澤井さんは続ける。

「ボッカッチォはダンテの評伝を書き、初めて神曲の講義をフィレンツェで行った文学者であり、敬虔なキリスト教徒だった。信心の深さという点ではダンテと同じ。ただ、『機智』(ウィット)を重んじ、知と心を中心にした人間描写を描くことで、新しい信仰の形態を打ち出したのではないでしょうか」

   澤井さんによると、「デカメロン」には13世紀末、中世末期に編まれた説話などの散文集「ノヴェッリーノ」など、多くの伝承や口碑が流れ込んでいる。ダンテの「神曲」が、南仏プロバンス地方の言語をトスカーナ地方の言語に精緻化し、イタリア語を確立した「神」の世界の堅牢な構築物であるとするなら、「ボッカッチォ」の「デカメロン」は、人間界に伝わるそれ以前の説話や口碑が流れ込み、巨大な水量を湛えて静まり返る湖のようなものだった、という。

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