2024年 4月 19日 (金)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(44) タリバン政権のアフガンは再び震源地になるのか

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アフガンめぐる地勢の複雑さ

   地図でわかるように、アフガンは周囲6カ国と国境を接する陸封国だ。北に旧ソ連の支配下にあった中央アジアのトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンが並び、北東に中国、東と南にパキスタン、西にイランが控えている。それぞれの地域にはタジク、ハザラ、ウズベク、パシュトゥンなどの部族が住み、それが軍閥割拠の下地になった。

   このうち、タリバンに最も密接にかかわったのがパキスタンだった。

   川端さんは、かつてタリバンが急速に支配を広げた背景には、パキスタンの3軍統合情報局(ISI)の存在があったという。インドとの間でカシミール紛争を抱え、つねに緊張下にあるパキスタンは、後背地のアフガンを影響下におさめ「strategic depth」を確保しようとした。「戦略的縦深性」。つまり、いざという場合に航空機などの兵器を隠したり、逃げ込んで反転攻勢したりする拠点としての役割だ。このためISIは、決してヒンズー教のインドに与しないイスラム教原理主義のタリバンに、人も金も武器も供与し、全面的にバックアップした。

   もともとアフガンとパキスタンの国境は、19世紀末にロシアの南下を恐れるイギリスが恣意的に画定したものだ。国境の両側には、同じパシュトゥン族が住んでおり、自由に行き来ができる。アフガンを追われればパキスタン側に逃げ込み、隙があればアフガンに出撃する。

   川端さんは、米軍をもってしてもタリバンを制圧できなかったのは、この両国にまたがるパシュトゥン族居住地帯の存在と、タリバンが唱えるデオバンディ派のイスラム原理主義の根強さだったのだろうと分析する。

   少なからぬアフガン人がタリバンの超原理主義を受け入れたり黙認したりしたのは、タリバンが少なくとも内戦を終わらせ、束の間の平穏をもたらすと人々が期待したからだ。

「アフガンは1964年の民主的な新憲法の発布以来、立憲君主制、共和制、共産主義、ソ連軍による占領体制、ムジャヒディン各派によるイスラム原理主義などあらゆる政体を試み、すべて失敗に終わった。ムジャヒディンの『偽のイスラム』を含め、現世にアフガンを平和に導く答えはない。それなら、預言者モハメッドが生きた7世紀のイスラムに回帰する以外にない。それがタリバン運動の原点だったと思います」

   もちろん、経済や外交などの問題を、復古主義で解決することはできない。人権や民主主義など、現代世界の普遍的な価値は、個人の理性の独立が大前提だ。宗教が唯一絶対の社会規範と信じるタリバンとは相いれない。

   だが、オマル師がブラヒミ特別代表に示唆したとおり、タリバンが自らの存在意義である超原理主義から離れることも考えられない。ひっきょう、タリバン政権下では、タリバンの統治政策は軟化するのではなく、むしろ強固で柔軟性の乏しいものになる。川端さんはそう予測する。

   では、その先はどうなるのか。

   川端さんは、国内的には、遅かれ早かれ人権と民主化の恩恵に浴した都市部のアフガン人の不満が高まり、アフガン社会の不安定化は必至だろうと指摘する。

   その場合に焦点となりそうなのは、タリバン旧政権の時代にも北部パンジシールに立てこもり、唯一屈しなかったタジク部族だ。

   かつてラバニ政権の下で国防相を務め、その後は北部同盟を率いて「パンジシールの獅子」と呼ばれたタジク族のアフマド・シャー・マスード司令官は、9・11事件の2日前、ジャーナリストを装う男の自爆テロによって暗殺された。タリバンの全国制覇への最後の障害であったマスード司令官の暗殺は、アルカイダがタリバンの要請により実施したとささやかれている。

   今回復活したタリバンは9月6日、国内34州のうち唯一掌握していなかったパンジシール州を「完全に制圧した」と発表した。その一方、反タリバン勢力の「国民抵抗戦線」(NRF)は「制圧の情報は誤り。我々は戦う」とツイートで発信したという。

   前に触れたように、タリバン駆逐後の「民主」政権で国軍に影響力があったのはタジク勢だった。タリバン復活後に反タリバン勢を束ねているのも、故マスード司令官の息子アフマド・マスード氏や、第1副大統領としてガニ政権を支えたサーレ氏という。

   もしこの反タリバン勢力が生き延び、組織化が進むとしたら、タリバン支配を嫌うイランやタジキスタンなどの周辺諸国が軍事支援をすることは間違いない、と川端さんはいう。

   また、パキスタンと緊張関係にあり、タジク族とも親密なインドも、支援に乗り出す可能性がある。

   だが、かつてのタジク族の強みは、故マスード司令官の個性によるところが大きく、今後も同様の力を持つかは未知数だ。かつてブラヒミ特別代表と共にカブールやタシュケントなどで故マスード司令官と交渉した川端さんはそう話す。

「軍閥から成りあがった他のムジャヒディン指導者と違い、フランス語を話しカブール工業大学で高等教育を受けた彼の話は理論的で、敵の兵力や味方の対応などは必ず具体的な数字で裏打ちされていた。安全確保も周到で、会見場所は2~3時間前まで国連に知らせず、会見場では一区画全体を部隊が警護するなど、万全の態勢を整えていた」

   そんなマスードを倒すには、ジャーナリストに成りすます知性と、マスード支配地域に1か月滞在して信用される忍耐力と、退路を考えない自爆テロの決意をもとに決行した暗殺しかなかった、と川端さんはいう。そうした作戦を立てられるのは、当時はアルカイダだけではなかったか。そう川端さんは推測する。

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