東日本大震災の被災地には、その記憶を後世に伝えるため、被害の様子が分かる形で保存・公開している「震災遺構」が点在する。大きな役割を担うが、維持管理には費用がかかる。残り続けることで、地元民につらい過去を思い出させるかもしれない。被災経験者に、率直な意見を聞いてみた。「お化け屋敷のように......かわいそう」宮城県気仙沼市。2011年3月11日に発生した東日本大震災では、1220人が亡くなった(関連死を含む)。大津波が押し寄せ、街の被害も甚大だった。それから8年後、市は「気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館」を開館した。気仙沼向洋高校旧校舎を保存し、伝承施設を併設する。希望すれば語り部がガイドしてくれる。建物は海から近い。震災で津波が4階まで押し寄せた。生徒や教職員は全員避難して無事だったが、校舎は無残な姿となった。あちこちが崩れ、がれきが散乱。教室の中に津波で流されてきた車両がひっくり返ったまま残された。震災前、同校の近所に住んでいた小野寺敬子さんにとっては、この高校は日常の風景の一部だった。自身は津波で家族と親類を亡くし、勤務先も被災。避難所で2011年6月まで、その後5年間を仮設住宅で過ごした。自分のことで手一杯の日々だったが、しばらくたったある日、ふと津波に襲われた高校の校舎に目をやった。「長年見ていた校舎が、お化け屋敷のようなおどろおどろしい姿になって、かわいそうでした」気仙沼にはほかにも、震災被害を象徴するものがあった。津波で流され、市内の鹿折(ししおり)地区に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」だ。市は当初、保存を検討していたが、船主が解体を希望。また2013年8月5日に公表された市民アンケート(回答数1万4083)の結果も、「保存を望まない」が全体の68.3%で「保存が望ましい」の16.2%を大きく上回り、残されることはなかった。次世代に伝えるのは「大人社会の責任」震災遺構について、「当初は賛否ありました」と語るのは、気仙沼在住の山内松吾さん。教員として宮城県内の高校に勤務し、南三陸町の志津川高校で校長を務めた。多くの人が犠牲となった震災で、残った建物などを見るのがつらいと考える住民もいた。山内さん自身は、家族や親戚が被災しなかったこともあり、「後世に伝えるには必要ではないだろうか、という立場でした」。気仙沼市は2013年以降、震災遺構に関する議論を重ね、その対象を気仙沼向洋高校旧校舎に絞る。ここが整備され、19年に伝承館の形でオープンした。運営するうえでは当然、経費がかかる。そもそも校舎が傷んでおり、修繕やメンテナンスを継続しなければならない。来館者に応対するための人件費、各種設備の管理費用も必要だ。入館料収入はあるが、子どもにも多く来館してもらいたいことを考えると、料金を高額にするのは難しい。これは、全ての震災遺構・伝承施設に共通する課題だろう。山内さんは、震災経験を次世代に伝えていくのは「大人社会の責任」と考え、「採算を度外視してでも」と施設の重要性を強調する。「震災遺構は、言わば『無言の語り部』」日本は全国どこでも、自然災害が起きる。海岸近くに住んでいない人でも、旅行や出張でたまたま海辺を訪れたときに地震、津波が発生するかもしれない。山内さんは、防災教育を学校のカリキュラムに入れてほしいと願う。そのうえで、実際に災害に直面した場所や遺構を訪れ、被災経験者の話に耳を傾け、「自分が津波に直面したら」を体感することは大いに意味があるはずだ。最初に紹介した小野寺さんは、語り部としての活動も続けているが、「震災遺構は、言わば『無言の語り部』」と表現した。破壊された建物の前に立てば、津波の威力のすさまじさを肌で感じられる。見学したあと、当時の津波の映像を見たりインターネットで調べたりする機会があれば、「用心しなければ」と気を引き締めるきっかけになるだろう。記者はほかにも、被災経験を持つ数人に震災遺構への率直な意見を聞いた。仙台市の女性は、3人の子の母親だ。末の長男だけが震災後に生まれたため、実際に体験した2人の姉と違って「どんな出来事だったかイメージしにくいみたいです」と明かす。長男は市内にある遺構「荒浜小学校」を見学した。女性は「自分が住んでいる場所で起きた出来事を少しでも身近に感じられる遺構は、意義があると思います」と語った。(J-CASTニュース 荻 仁)
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