保守政党合同の動き強まるにつれ離脱者相次ぐ
1947(昭和22)年4月に初めて実施された参院選挙(定数250)の当選者は、無所属が108人と圧倒的多数(第一党の日本社会党は47)だった。ほぼ同時に行われた衆院選(定数466)では、日本社会党143、日本自由党131、民主党126で、立ち上がったばかりの参議院にはまだ、政党の波が及んでいなかった。
そうしたなか、保守系無所属議員を中心に貴族院からの転身組も合わせ「緑風会」は92人の最大会派となった。かろうじて戦災を免れたものの保護が急務だった「文化財保護法」を議員立法する。「破壊活動防止法案」に修正を加えるなど、独自の動きを見せた。ただ「党議拘束」がなかったので、自由な意見を言える半面、他党との駆け引きにはほぼ、縁がなかった。
その後の選挙の当選者は10人前後にとどまったうえ、保守政党の合同の動きが1955年の自由民主党結成前後に強まるにつれ、会派の離脱者が相次ぎ、緑風会の議席は48(53年)29(56年)と減る一方。1965年には解散、消滅した。
一方で、参院設立時にGHQから投げかけられた課題「第二院の独自性」は、戦後80年経った今も残されている。当時、独自性とされた「全国区」は選挙にカネがかかり過ぎるとして45年前を最後に廃止され、政党による比例代表制に代わった。やはり「独自性」のカギは選挙制度の変更にあるのか。
今回もいつもと変わらない、政党による候補者擁立作業が続いている。「80年前のGHQの宿題」に答える動きは、いつになったら出てくるのか。
(ジャーナリスト 菅沼栄一郎)