単独機の事故としては世界で最も多い520人が犠牲になった日航ジャンボ機事故から2025年8月12日で40年。事故は社会に大きな衝撃を与えたが、当時の永田町の政治部記者の関心事は別のところにあったようだ。
19年に死去した中曽根康弘元首相が生前に国立国会図書館(東京都千代田区)に寄託した大量の資料の中には、当時の記者会見の資料や、新聞記者が政府・与党幹部を取材したメモも大量に含まれている。その中にはジャンボ機事故に触れたものもあるが、事故原因に関する内容はほとんどなく、当時として戦後最大だった三光汽船の倒産や、事故後のJAL社長の後任人事をめぐるものがほとんど。唯一といっていい事故原因に関する質問は、荒唐無稽とも言える内容だった。
「中曽根文書」の官房長官会見書き起こし、国立公文書館では発見できず
中曽根氏が国会図書館に寄託した文書の内容は、講演のための原稿や、政治家や文化人と交わした書簡、メモ書きが入った記者会見の資料など。その中には「情報簿」と題したファイルがあり、政治家の発言とみられる内容が収録されている。この内容は「『日航ジャンボ機事故』直後の『人事』暗闘 消えた『社長候補』...中曽根文書から読み解く」(20年8月)で詳報している。
中曽根文書の中には「官房長官記者会見」と題したファイルもあり、記者会見の発表資料や、発言の書き起こしが収められている。書き起こしは「内閣」の文字が入った原稿用紙に手書きで書かれている。ファイルにとじ込まれていた、対応方針を示した「運輸大臣発言要旨」「国家公安委員会委員長発言要旨」、自衛隊の対応を時系列で示した「日航機墜落に係る自衛隊の対応について 防衛庁長官発言要旨」などの資料は、国立公文書館で開示された「閣議資料」にも含まれていた。だが、会見の書き起こしは公文書館では発見できなかった。
書き起こしに初めて事故の記述が登場するのは、事故翌日の8月13日11時3分から12分にかけて開かれた会見だ。藤波孝生官房長官(以下、肩書きはいずれも当時)が冒頭、事故対応について説明した上で
「御家族の方々の御心痛を拝察をいたしまして、心から御同情を申し上げる次第でございます」
などと発言。続いて、三光汽船の倒産を受けて、同社の事実上のオーナーだった河本敏夫・沖縄開発庁長官が長官としての辞意を表明したことが説明された。
「過激派がしたという情報もありますが」
直後に記者から出た質問は日航機事故関連で、
「日航機の方のことですけれども、過激派がしたという情報もありますが、それは政府として確認はされたんですか」
というもの。藤波氏は次のように応じ、テロ説を完全否定した。
「特に政府としては確認をしておりません。今、申し上げましたように救援活動を一方で行うと同時に原因の究明も急いでいるというのが状況でございますが、特に過激派からのなんらかの情報があったというには聞いておりません」
この会見で出たのは全3問。残る2問は三光汽船・河本氏関連だった。
官房長官会見はこの日の午後、16時10分から15分にも開かれた。藤波氏は生存者4人が確認されたことや、救出活動に並行して「原因の究明に万全を期す」方針に言及したが、記者から出た質問は河本氏の辞意関連が4問。事故に関するものはなかった。
事故から25日後にはNYTが「修理ミス」指摘
事故原因をめぐっては、航空事故調査委員会が1987年6月、事故は後部圧力隔壁の不適切な修理に起因するとする報告書を公表している。
圧力隔壁原因説は、事故直後から指摘されてきた。例えば事故から5日後の85年8月17日の朝日新聞には、
「日航墜落機、飛行中に隔壁破裂? 機内空気の噴出示す破片数枚を発見」
の見出しで記事が載っている。
圧力隔壁の「修理ミス」に初めて言及したのは米ニューヨーク・タイムズだ。情報源は事故現場で調査に携わった米国家運輸安全委員会(NTSB)関係者で、事故から25日後の9月6日、「日航機事故に手がかり」の見出しで、
「事故を調査している当局は、事故の原因となった可能性のある客室後部の不適切な修理の証拠を発見した」
と、「調査関係者の話」として伝えている。修理は、1978年の「しりもち事故」の際に圧力隔壁に対して行われたものだ。その2日後の8日付NYTの記事では、
「ボーイング社が、客室後部の修理に不具合があったことを認めた」
「ボーイング社は『この修理が事故の原因となったかどうかを判断するため』に、さらに分析が必要だと付け加えた」
などとボーイング社が修理ミスを認めたことを報じている。この報道が原因究明の方向性を決定づけたとの見方もある。
ただ、この結論を疑問視する向きが今でも一部にある。自衛隊が撃墜したとする主張などだ。そのひとつが作家・青山透子氏の著書「日航123便 墜落の新事実」(河出書房新社)で、自民党の佐藤正久参院議員が2025年4月10日の参院外交防衛委員会で「陰謀説」として問題視。中谷元防衛相が
「自衛隊が墜落に関与したということは断じてない」
などと全面否定している(著者の青山氏は、佐藤氏の発言が「表現の自由、言論への弾圧」だとして反論する文章をウェブサイトに掲載している)。JALは5月2日に開いた記者会見で、鳥取三津子社長が、これまでに示された見解を「しっかりと伝えていくことが重要」だと指摘。野田靖総務本部長も
「私どもとしては、この大変な事故を起こしてしまった当事者として、事故調査委員会の方で出された事故調査報告書、ここに書かれていることが全てという認識だ」
と応じている。
幹部の大半が夏休み、初動遅れた自衛隊
「撃墜説」とは別に、当時の自衛隊は世論から厳しい批判を浴びている。当時、防衛施設庁長官だった佐々淳行氏が「中曽根内閣史」(世界平和研究所)への寄稿で明かしている。寄稿によると、加藤紘一防衛庁長官を筆頭に、幹部の大半が夏休み中で、「在庁だったのは内局では村上正邦政務次官のみ」。官邸にいた中曽根氏からは
「『直ちにヘリコプターを飛ばせ。夜間の現場着陸は危険で困難であることはわかるが、上空を舞っているだけで生存者は勇気づけられるのだから、RFファントム偵察機の高高度写真撮影だけでなくヘリコプターを飛ばせ』と、再々の指示があった」
が、「防衛庁長官以下主要幹部たちが顔をそろえたのは深更」。生存者の川上慶子さんが、墜落からしばらくは周辺でうめき声が聞こえていたとする証言をしたことから、批判が相次いだ。当時の様子を、佐々氏は次のように総括している。
「有事即応の態勢を欠き、加藤長官以下幹部がいっせいに休みをとり、立ち上がりの段階で指揮権に空白を生じた防衛庁内局の危機管理感覚の欠落は、マスコミ、世論の手厳しい批判を受けたのであった」
(J-CASTニュース編集委員 兼 副編集長 工藤博司)