自民総裁選に号砲、各候補は野党取り込み意識 細川連立、自社さ政権から読み解く教訓

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   自民党総裁選は2025年9月22日に告示され(10月4日投開票)、5人の候補者が出そろった。少数与党としての政権運営を強いられるため、総裁選以前から「野党連立」をめぐる動きが活発になっている。各候補の出馬宣言にも野党との連携を意識した発言が見られる。早くから多党化のなかで連立交渉を経験してきた欧州の政党とは異なり、「連立政権」の経験が少ない日本の政党にも、過去の事例にいくつかのヒントが隠されている。

  • 自民党総裁選がスタート。野党との協力も論点のひとつだ
    自民党総裁選がスタート。野党との協力も論点のひとつだ
  • 小沢一郎衆院議員(2019年撮影)。小沢氏が8党派をまとめて誕生した細川連立政権は8か月で崩壊した
    小沢一郎衆院議員(2019年撮影)。小沢氏が8党派をまとめて誕生した細川連立政権は8か月で崩壊した
  • 自民党総裁選がスタート。野党との協力も論点のひとつだ
  • 小沢一郎衆院議員(2019年撮影)。小沢氏が8党派をまとめて誕生した細川連立政権は8か月で崩壊した

25年前の「自公連立」にこぎつけたキーマンの存在

   民主党政権の3年間を除いて約22年間続く自民・公明の連立政権は、世紀末の1999年10月、小渕恵三政権で生まれた。98年7月の参院選の過半数割れで退陣した橋本龍太郎内閣の後を受けた少数与党の小渕政権は、公明党らとの連立が必須の状況だった。ただ、自民党は細川政権で野党に転落以来、同政権に入った公明党に対しては、強烈な「宗教政党」批判を繰り返した経緯があった。小渕首相に連立交渉を丸ごと任されたのが、野中広務官房長官だった。

   当時、「連立入り」を求める野中氏と向き合った神崎武法公明党代表はこう言った。

「これまで『反自民』で闘ってきたので、いきなり連立政権というわけにはいかない。まず『ワンクッション』おいてほしい」。

   「ワンクッション」とは、小沢一郎氏の自由党と連立した後に検討するということだった。その5年前の「小沢氏の自民脱党~細川政権樹立~結党以来38年で初めての政権転落」以来、小沢氏と正面から権力闘争を続けていた野中氏にとって、「自由党への連立要請」は「悪魔にひれ伏してでも」(野中氏)の行為だった。この難行を整えた1年後に、改めて神崎代表に連立を要請した野中氏を「自公連立政権の生みの親」と、同氏が亡くなった後のインタビューで、神崎氏は語っている。(2018年のNHKマガジン)

自社さ村山政権は社会党転落の始まり、8党派連立政権は8か月余で崩壊した

   今の政界に野中氏ほど剛腕な仕掛け人の出現は難しいにせよ、自民党が野党との連立交渉を進めるうえで浮上する数々の難関を、突破する交渉役が必要となる。野中氏は、自公連立以前の「自社さ連立政権=村山富市首相」(94年6月)の調整にも、深く関わっていた。連立によって成立した自社さ政権は、戦後自民党と40年近く対峙してきた社会党が消滅の危機に向かう大きな転機ともなった。村山政権は、それまでの社会党の基幹政策を大転換して、「自衛隊合憲、日米安保堅持」に踏み切り、全国の大量の支援者が離れ、党内の議員が離脱する転機となった。

   社会党衰退の例のように、野党の「連立政権入り」は、「政権党へのすりより」と批判され、それまでの支持者が離れ、党勢転落のきっかけとなりかねない。さらに、小沢氏が一気に8党派をまとめた細川連立政権(93年8月)が、内部分裂から8か月で崩壊した事実は、今でも連立に挑戦する野党幹部の頭にはあり、慎重にならざるを得ない大きな要因となっている。

「政策実現」を図るが、選挙区調整の難題を解決できるか?

   社会党や細川連立政権の「苦い教訓」から、自民党との「連立」については、野党側に根強い警戒感も残る。今回も、「日本維新の会」では、自民党幹部と広い人脈がある国対委員長が復帰、「副首都」構想実現をバネに連立入りを支持する意見が党内に広がるとされる中で、大阪の党員らにはなお慎重論が根強いとも言われる。

   「選挙区調整」も連立への動きにブレーキをかける大きな要因だ。公明党の場合、自民党と小選挙区での競合が少ないうえに、創価学会票が小選挙区での自民票を補う代わりに、公明党へ比例票を回すという交換条件が長い間に成立してきた。しかし、玉木雄一郎・国民民主党代表が、選挙区調整は「簡単ではない」と述べているように、今の野党にとって、大きな難題となっている。

(ジャーナリスト 菅沼栄一郎)

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