2026年2月14日に配信されたABEMAの報道番組『ABEMA Prime』で、社民党副党首の参議院議員・ラサール石井氏が展開した日本の防衛政策への批判が、大きな波紋を広げた。
日本の防衛力増強について「(武器を)アメリカに買わされてる」と言い、現状を批判した。そこでお笑いコンビ・ぺこぱの松陰寺太勇氏が、日本の領海・領空にどんどん入ってくる中国、核ミサイルの実験をする北朝鮮に対して、社民党はどう考えるのかを問うと、唐突に歯切れの悪い回答を繰り返す状況となった。
これに対して、SNSでは「リベラルがこの体たらくでは」など、ラサール氏に対する非難が相次いだのだ。
現実味を欠いた抽象論に映るリベラルの主張
ラサール氏の今回のやり取りは、リベラル知識人層の主張が一部の有権者に抽象的に映っている現状を象徴しているとも言える。
SNS全盛の現代、一部では、議論の場が糾弾の応酬へと傾いているとの指摘もある。
もちろん、リベラル勢力の中にも緻密なロジックで政策を戦わせる者は存在する。しかし、アルゴリズムが過激な言葉を優先して拡散する構造のなかで、「議論型」よりも「糾弾型」が可視化されやすい現状がある。
その結果、「リベラル=現実の脅威から目を背け、身内だけで正義を叫ぶ人々」というネガティブなラベリングが固定化されてしまっている傾向にある。
なぜ、リベラルの言葉はここまで届かなくなったのか。
たとえば弁護士・倉持麟太郎氏は『リベラルの敵はリベラルにあり』(ちくま新書)のなかで、日本のリベラル層の主張を「わかる人にわかればよいというエリート主義、愚民思想が見え隠れする」と言う。
たとえば、防衛費増額や日米同盟の強化を支持する有権者を「メディアに踊らされている」「右傾化している」と断じる態度は、有権者が日々感じている「領海侵入」や「ミサイル発射」への切実な生存不安を、端から「誤り」として切り捨てているに等しい。
こうした独善的な志向が、「リベラル層」への非難につながっているのではないか。
立命館大学の白戸圭一教授は立命館大学新聞社webで、「思想が強い人」という言葉がリベラル志向の人を指す言葉として使われる理由を「『人は皆勉強すればリベラルになるんだ』とでも言いたげな『説教臭さ』や『上から目線ぶり』を感じさせる人が少なくない」と論じている。
加えて「今のように分断が進んだ状況では、論理で相手を屈服させるのでなく、わだかまりをほぐしていくことが極めて重要である」と述べている。
こうした世間の空気感が、衆議院選挙における野党敗北の一因となった可能性も否定できない。
リベラルは大衆の「常情」をつかみそこねているのか
かつて、歴史学者の坂野潤治氏は、その著書『日本政治「失敗」の研究』(講談社学術文庫)で、明治期の思想家・徳富蘇峰が、日本人は極端な思想や急進的な変化を嫌い、日々の平穏と生活の安定を第一に考える「常情(=コモン・センス)の国民」であるという指摘に注目した。
坂野氏は、戦前のリベラル政党・民政党が、政治的自由や平和外交には熱心だった一方で、経済的平等や弱者救済には無関心(冷淡)であったことが、国民の支持を失う大きな原因となったことを挙げ、大衆の「常情」をつかみそこねたことで、軍部の暴走を許したことが戦前の日本の悲劇であったと分析している。
現代のリベラル層の主張に対する大衆からの反発も、こうした構図に通じるものがあるのではなかろうか。
リベラル勢力が現実路線転換で政権を奪還したイギリス労働党
海外に目を向ければ、リベラル勢力が「常情」に寄り添った現実路線への転換が、有権者の信頼回復につながった成功例がある。イギリスの労働党だ。
かつてジェレミー・コービンが率いた労働党は、反核・反戦・再国有化といった急進左派路線を突き進み、保守党に歴史的大敗を喫した。当時の労働党もまた、一般有権者の「経済や国防への不安」を軽視していたことが指摘されている。
しかし、その後を継いだキア・スターマー(現首相)は、徹底した現実路線への転換を図った。彼はNATOへの支持を明言し、ウクライナ支援でも保守党政権と足並みを揃えた。さらに、無秩序な財政支出を戒め、財政規律を強調することで、金融市場からの信認を取り付けた。
日本において、リベラル政党が再び統治の選択肢として国民に認められるためには、平和という理念と、それを支える健全財政という責任をセットにした、新たな論理を再構築するべき時期にきているのではないだろうか。