今回は、毎年この時期になると出てくる「チャリティー番組出演者のギャラが高額なのはいかがなものか」問題を考える。今年もこの季節がやってきた。例年、8月下旬に放送されることもあり、「あー もう夏休みも終わりか...」という感傷的な気分を伴った思い出になっている、「24時間テレビ・愛は地球を救う」。1978年から毎年、8月下旬の土曜日から日曜日にかけて生放送されている、皆さんご存知のチャリティー番組である。チャリティーならノーギャラが当たり前?結婚式で、「プロ」の友人に...視聴率は毎年好調であり、全37回の放送中、平均視聴率が10%を割り込んだのはわずか7回のみ。最高は2005年、第28回の19%。ちなみに今回は歴代6位となる17.3%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)であった。しかしこの番組、長年の歴史とブランドを持っており、24時間の番組で15億4523万円(2013年度実績)もの募金を集めるだけのパワーがある一方で、「感動の押し売り」だとか「募金詐欺」といった非難をもって語られることもある。今回はそのように非難する側の言い分も踏まえ、同番組の存在意義についてみていきたい。2013年夏に週刊誌「FLASH」が報じたところによると、チャリティランナーには1000万円、総合司会には500万円という高額な報酬が支払われているという。その他、具体的なタレント名を挙げて、100万円~1000万円のギャラリストが掲載されており、ネット上でも転載されて様々な憶測を呼んでいるところだ。こういった情報をめぐっては、往々にして声の大きな連中が出てきて、「出演者のギャラが500万円だと!? 海外ならチャリティーはノーギャラが当たり前だ! 番組やらずに、ギャラと製作費を寄付に回せ!!」と叫び、よく分かっていないフォロワーがRTやシェアで追従する、というのがいつものこの時期におけるお決まりの光景である。感覚的にそう思ってしまう気持ちはよく分かる。しかし、物事はなんでも多角的に考えることが重要だ。「一面的な見方」しかできないのは実に恐ろしい。たとえばあなたは、「芸能人はテレビで話すだけの簡単な仕事」などと思ってないだろうか?そんな人には、格安でデザイナーを募集しようとした某自治体を批判する資格はない。構造としては同じことであり、彼らがこれまでの人生で培ってきたもろもろのものを、「チャリティーなんだから」「やりがいがある仕事なんだから」=「ボランティアでもやるべき」、と信じて疑わない行為である。そんなスタンスが、ブラック労働を生んでしまうといってもよいだろう。芸能人でいえば、彼らが今までの人生において努力してきた結果として多くのファンがつき、現在の彼らの影響力に繋がっているわけである。影響力がある人物が寄付を呼びかけることで、そうでない人がやるよりも多くの寄付が集まるならば、それは投資対効果として良いものと言えるのではなかろうか。そこで筆者は、日本におけるファンドレイジング(寄付金の資金調達)の第一人者、一般財団法人「ジャスト・ギビング・ジャパン」事務局長、梶川拓也氏に意見を求めた。コストを掛けても集まる寄付金が多ければ、結果として役立つ氏は本件について、こう喝破する。(1)寄付集めは、コストを掛けても集まる寄付金が多ければ、結果として社会問題の解決に役立つ(2)実際に国連では、集める寄付金の25%程度を「ファンドレイジング・コスト」(寄付を集めるためのコスト)として認めている。※ちなみに、ジャストギビングでは10%(3)昨年(2013年)の「24時間テレビ」の場合、番組総制作費が4億2000万円に対し、寄付金が15億4523万円、CM収入が22億2750万円ということなので、37億7000万円近くがファンドとして集まった計算になる(4)ここで25%ルールを適用すれば、9億4000万円がファンドレイジング・コストとして許容できる範囲だが、ギャラは製作費に入るだろうから、「24時間テレビ」の実質的なファンドレイジング・コストは全体の11%の4億2000万円という計算になる。したがって、日本テレビが28億3000万円以上を寄付しているなら国際的なルールの範囲内と言え、もし11%のファンドレイジング・コストで集金できているなら、世界的基準と照らし合わせても、投資利益率は素晴らしいパフォーマンスだと言える(5)ただ世間から批判があることについては、日本テレビ側にも課題がある。同局が最初から「我々はプロとして、仕事として寄付を集めるイベントを行っている。そのためにはこれだけの出演料を支払ったうえで番組を制作している」といった情報を開示していれば、このような批判はなかっただろう寄付者に対して投資対効果をきちんとPRするべきだ確かに社会的背景として、日本においてこの「ファンドレイザー」のような「資金調達する人」がプロフェッショナルとしてまだまだ認知されておらず、「寄付集めに対して対価を得る」ことに馴染みがないことも、「チャリティー出演者にギャラ批判」が起こる原因の一つといえよう。引き続き梶川氏はこう提言する。チャリティーやNPOのミッションは、「社会問題を解決すること」であり、大きく解決するためには、より多くの寄付を集める=ファンドレイジング→一人でも多くの被害者を助けて、問題解決する→社会に対し、問題の存在と、解決できたことによる活動の成果と意義を広くPRする→次のファンドレイジングに繋げるというサイクルをどんどん回す必要がある。日本のチャリティーやNPOでは、現場での問題解決には力を入れるものの、ファンドレイジングとPRが不足している。出演者へのギャラを議論する以前に、視聴者側は本来、我々が目指すべき社会問題が「24時間テレビ」でどれだけ進展したのかをチェックすべきだ。同時に、日本テレビ側は寄付者に対して投資対効果をきちんとPRすることこそが重要なのである。サービス提供者の、現在に至る努力と研鑽に対して価値を意識してみよう先ほど「そんなスタンスが、ブラック労働を生んでしまう」と書いた。具体的にはこのような場面だ、皆さんの周りでもしばしば見られるかもしれないし、場合によっては「そんなこと当たり前」と思い込んでいるかもしれない。でもこの機会に、「言われた側」の立場からよく考えてみることをお勧めしたい。<ケース1> イラストレーターの友人に、結婚式のウエルカムボードを描いてほしいあなた「こんど結婚するの! そういえばあなた、イラストレーターだったよね!? 絵描くの本業でしょ? じゃあお祝いに、私たちの式のウエルカムボード作ってくれない!?」友人「...」あなたは「一生に一度のことだし、絵なんか普段から描いてるんだから、そのうちのひとつとして、ケチらずにお祝いの気持ちでやってくれてもいいだろう」と考えているかもしれない。しかし、これはもう明らかに「プロフェッショナルへの冒涜」といってもいいだろう。イラストレーターの友人は、その職業で食べていくために時間とお金を投じて努力をしてきた。そして現在は、イラストを描くことで対価を得ているわけだ。部外者から見れば「絵など片手間で描けるのでは?」と思うかもしれないが、本業の時間、もしくはプライベートの時間をわざわざ割いて、金にもならない作業を、わずかな納期で仕上げる義理があるのだろうか。目の前の友人は困惑しているのではない。「自分の仕事を低く見積もられた怒り」で、はらわたが煮えくり返っているのだ。<ケース2> システムのトラブルで業者を呼んで対処してもらったが、なんだかアッサリ作業が終わってしまったあなた「明日納品という大事な時期に、システムトラブルで作業できないのか!? 遅れたらこの仕事自体がパアだ! 早く業者を呼んで何とか対応しろ!!」~業者さんが対応に来たところ、5分で作業終了~あなた「やれやれ、助かった... ナニ!! 請求額が50万円だと!? たった5分の作業で何言ってるんだ! すぐ終わったんだから、その分なんとかしろよ!!」この場合、あなたは単なるクレーマーだ。もし読者の皆さんの中で「あなた」側の言い分に共感した方は、成果ではなく、投下した労働時間のほうに価値があると思い込んでしまっている「ブラック企業マインド」をお持ちである。ぜひそのマインドは打ち捨てて頂き、「危機感」のほうを持って頂きたい。構図としてはケース1と同様である。その業者さんは、システムトラブルを一瞬で解決できるだけの技術力を備えていた。そこに至るまでには、地道な努力の積み重ねがあったことだろう。50万円という金額は時給ではなく、「卓越した技術力を持った技術者が、わざわざオフィスまですぐに来てくれ、迅速に対処してくれた」というサービス全体へのフィーなのである。所要時間が短く済み、納期遅れを回避できたことは喜ぶべきことであるはずだが、それを「短い=価値がない」と判断し、値切ろうとするとは愚の骨頂だ。おそらく、この業者さんは今後あなたがいくら危機的状況に陥っても助けようとはしてくれず、次回以降トラブルは広がっていくに違いない。我々は、形のないサービスの価値について、あまり意識することもないか、だいぶ割り引いて考えがちではないだろうか。そんな、配慮も感謝もないところでは、労働がブラック化してしまう。少しでもよいので、これからはサービス提供者の、現在に至る努力と研鑽に対して価値を意識してみよう。たとえば、「あなたのイラストが本当に大好きで、ぜひ結婚式で使いたいのだ」という真摯な気持ちが、お金以上にイラストレーターを動かすかもしれない。たとえば、「あなたのお蔭で、ピンチを切り抜けられました! 本当に助かりました!! これからもぜひお力を貸してください!!」という技術者への一言が、今後のトラブルをどれだけ救ってくれるかもしれないのだ。そんなわけで、話は最初に戻る。 ぜひ、物事を多角的にみてみよう。(新田龍)
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