証券業界
歴史
銀行に比べ地位が低い証券市場
東京証券取引所の旧建物(1931年から1982年まで使用)
日本の証券業界は長い間、金融界の中で奇妙な立場に置かれてきた。日本の戦後の経済復興は銀行を経由した「間接金融」を柱に行なわれてきた。政府は低金利政策によって預金金利を低く抑え、集められた低利資金は銀行を通じて産業に貸し出された。こうした政府の金利規制という政策は、価格メカニズムに価格決定を委ねる市場経済には馴染まない。株式市場や債券市場は、基本的に需給と投資家の思惑によって価格が決定される。本来なら市場機能を活用することが、経済効率が一番よく、資源配分にとっても好ましいといえるが、戦後の日本の資金不足の状況を考えると、限られた資金を産業に集中的に、しかも低いコストで提供するという、一種の資金割り当て政策は、株式市場や資本市場を通す「直接金融」よりも有効であったといえる。
企業は長期の設備投資資金などを調達するために増資をしたり、社債を発行したりするのが通常の形である。だが、日本の金融システムでは、長期資金の提供は銀行、特に長期信用銀行や信託銀行を通して行なわれた。あるいは、商業銀行が短期の貸し出しをロール・オーバー(決済繰り延べ)して実質的に長期資金の供給を行なってきた。そうしたシステムのもとでは、株式市場や債券市場は、周辺部分に位置する、つまり補完的な金融市場でしかなかった。そのことは、戦後の日本の証券会社の特徴を決定することになった。
個人資産に占める株式の比率は低い
長い間、日本では、資産運用のための最大の資産は銀行預金であり、株式や投資信託ではなかった。個人の株式保有は極めて低水準に留まっていた。何度かあった株式ブームの時に、一時的に個人の株式保有額が増えることはあったが、決して資産運用の主流になることはなかった。証券会社は“株式の大衆化”運動を行い、個人投資家を増やす努力を行なったが、なかなか成果が上がらなかった。株式投資は投機であるという根強い意識が、個人投資家のなかにあった。
また、株式市場の寡占化による弊害が、個人投資家を株式投資から遠ざけている面もあった。戦後の証券業界では、4社寡占体制が成立していた。4社とは、野村證券、大和證券、日興證券、山一證券であり、株式市場での取り扱いだけでなく、株式や社債の引受業務でも、4社はほぼ市場を独占していた。また、株価形成に対する4社の影響力は強く、時には株価操作的な動きもあるなど、株式市場の民主化は大きく遅れていた。投資信託も証券会社によって実質的にコントロールされるなど、個人投資家にとって株式投資は必ずしも優良な投資商品とはいえなかった。
証券の売買手数料が自由化される
80年代に入って進んだ金融自由化が、証券業界を活性化させる役割を果たした。まず、財政赤字が拡大するとともに、政府は金利を規制し続けることができなくなった。国債発行市場では政府が規制によって、高い価格(=表面利率が低い、低クーポン)で金融機関に売りつける一方で、金利の自由化が先行した流通市場では国債価格が政府の大量発行によって、暴落(=金利が上昇)した。
金融機関が資金繰りの必要性から、発行市場で無理矢理買わされた国債を流通市場で売ろうとすれば、売却損が出るため、発行市場での高い価格での国債引き受け(購入)を渋り始めた。国債の発行量が少ない時代は、金融機関は満期まで抱え込んでいたので、こうした問題は生じなかった。
こうした金融機関の買い渋りによって、発行市場における低クーポンの発行が困難になり、発行市場でも金利の自由化が進んだ。その結果、中期国債ファンドのような自由金利の商品ができて、それが預金金利の自由化を促す触媒になった。
資本市場での発行の自由化は、金利自由化と歩調をあわせて起きた。また、投資家として成熟してきた個人も、低金利や低リターンに甘んじることなく、より高い投資リターンを求めるようになってきた。そこで問題となったのは、証券の売買手数料が高いことである。欧米では70年代から委託売買手数料の自由化が進んでおり、日本でも“日本型ビッグバン”によって証券の売買手数料の自由化が行なわれた。委託売買手数料の自由化は、証券会社の経営環境を大きく変えた。
崩れる証券業界の寡占体制
こうした自由化の進展と歩調をあわせるように、4社寡占体制も足元から崩れ始める。80年代に証券業界はバブルによる株価ブームを満喫する。好況を背景に証券各社は、コンピュータなどに過剰なシステム投資を行なう。だが90年代初めにバブルは弾け、株価は急落、株式の出来高は急激に落ち込む。過剰投資となった証券会社は、経営に行き詰る。
97年に4社寡占体制の一角を占めていた山一證券が自主廃業し、事実上倒産した。同社の場合、投資家の損失を補填する“飛ばし”によって膨大な損失が発生し、それを隠蔽していたことが命取りになる。また、過剰な設備投資をした準大手の三陽証券も、97年に経営が破綻した。かつて山一證券は1965年に同様な経営危機に直面したことがあるが、そのときは日本銀行の特別融資で生き延びた。しかし、80年代の金融自由化という新しい状況のもとでは、もはや従来型の救済は不可能で、最大手証券会社の1つであった山一證券は倒産する以外に道はなかった。
認可制から届出制への変更が新規参入を促進
4社寡占体制は山一證券の破綻で崩れるが、同時に証券業界への新規参入促進も業界地図を大きく変えることになる。89年に、証券会社の設立は「免許制」から「届出制」に変わり、他産業からの参入が容易となった。新規参入企業との競争から守られ、既得権を満喫できた証券業界は、これを機に、抜本的な経営の見直しを迫られることになる。
多くの株式仲買人と東京証券取引所の旧立会場
異業種からの参入としては、ソニーがマネックス証券に出資したり、インターネット企業の楽天がDLJディレクト証券(2004年7月に社名を楽天証券に改称)を買収したり、ソフトバンクがソフトバンクフロンティア証券(2004年にワールド日栄証券と合併してワールド日栄フロンティア証券になる)を設立したりしている。こうした新規参入証券の特徴は、多くがネット証券である。従来の、店舗を設置し、大量のセールスマンを投入する営業形態は収益性が低い。低い手数料を武器に、ネット取引を拡大することで、独自の営業基盤を確立している。ネット証券の最大手は松井証券で、ネット証券会社の出来高に占めるシェアは急速に高まってきている。
証券会社も、3社が持ち株会社を設立
さらに、それまで証券業務兼営を禁止されていた銀行が、持ち株会社を設立して、そこから証券子会社を設立し始めた。こうした形で、銀行の証券業務への進出が認められたことも、証券業界を大きく変えることになった。特に銀行系証券会社は企業と密接な関係にあり、株式発行や社債発行で証券会社よりも優位な立場に立つことができる。さらに、大衆投資商品である投資信託も銀行の窓口で販売できるようになり、従来から存在する証券会社の収益源を奪うことになった。銀行系の証券会社としては、三菱証券、UFJつばさ証券、みずほインベスター証券がある。
一方、従来の証券会社も、新規参入証券会社との競争に対応するために持ち株会社を設立している。現在、証券会社系の持株会社は野村ホールディングス、大和證券グループ、日興コーィアルグループの3社で、それぞれ異なった戦略を取っているのが注目される。野村グループは独立路線であるのに対して、大和證券グループは三井住友銀行と提携関係を強めており、日興コーディアルグループは国際資本であるシティグループとの提携によって生き残りを図っている。