2020年 11月 27日 (金)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(39)
「戦陣訓」が「魔の呪文」だった理由

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   1941(昭和16)年1月に陸軍大臣東條英機の名により軍内に示達されたのが、「戦陣訓」である。この時から終戦時(1945(昭和20)年8月)まで、戦場の兵士たちを拘束、あるいは束縛したのが、この戦陣訓である。極めて指導者にとっては都合の良い教えだった。

   戦陣訓は長文ではあるにせよ、主要点は限られている。例えば、「第七 死生観」には「死生を貫くものは崇高なる戦闘奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」とある。そして最も有名なのが、「第八 名を惜しむ」だが、ここには「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱めを受けず死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とあった。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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島崎藤村も「熱心になり、時間をかけて名文に」

   全体にこの戦陣訓はあるリズムを持っていて、口に出して奉じてみれば美文調の自己陶酔できる語彙が並んでいる。しかし兵士たちには「魔の呪文」と言ってもいいのではなかったかと思われるのだ。戦場の兵士たちにとっては常に背後から「生きて虜囚の辱めを受けず」という語が追いかけてくる状態だったのである。

   20世紀の戦争にはルールがあり、どの国もそのルールに基づいて戦闘を続ける。戦争と言えどもできるだけ命を大切にする、死の確率の高い戦闘では現地の司令官の判断によって捕虜になっても構わないとのルールがあった。

   ところが日本軍は戦場での司令官とて現場サイドの自主的な判断は許されない。東京の参謀本部作戦部の命令によって決まる。「最後の一兵まで戦って死守せよ」と命令するのだから、兵士はそれを受け入れる以外には途はなかったのだ。

   もともとはこの訓示は、陸軍の教育総監部の本部長であった今村均が、東條の命令によって作成したものだった。東條は、日中戦争下で日本兵が捕虜になったり、戦闘が不利になると撤退したりすることに不満を持っていた。弱兵すぎるというのであった。そこで今村に訓示を作るように命令したのだが、今村は今村で別な思惑があった。日中戦争の戦場では日本兵の乱暴が問題だ、規律を正さなければならないと感じていたのである。東條との間には若干のズレがあったのだ。

   今村は部下に、ひとまず案をまとめさせた。いわば軍としては兵士にどのようなことを期待するか、を列挙させたと言っていい。この案を日本語としてわかりやすく、いわば精神訓話として唱和できるようにということになるであろう。東條は、こういう時には必ず高名な作家、評論家に文章を手直しさせるのだが、この時は島崎藤村に教育総監部の下案を届けさせた。藤村も熱心になり、時間をかけて名文にしたというのである。

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