2021年 6月 13日 (日)

内田篤人に「鹿島の2番」託して十数年 名良橋晃氏が読み取った「ラストマッチのメッセージ」

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「ターニングポイントになったと思う」W杯

「僕は鹿島を去る時、言い方が良いのか分かりませんが、『2番は軽い選手にはつけてほしくない』と思っていました。その中で、篤人はこれから飛躍する選手、無限の可能性がある選手だと思っていました。

当時は高校を卒業したばかりで体の線は細く、完成された選手ではありませんでしたが、スピード、走力、技術と、サイドバックとして求められるすべての資質を持っているプレーヤーだというのはすぐに感じました。それに、誰からも愛される、人懐っこい選手でしたね。気遣いもできるし、誰とでも合わせられる賢さもあり、多くの人を引き寄せられる人格者。アントラーズでレベルの高い選手とプレーすることで、これからもっと良さが引き出されていくんじゃないかと感じました。だから2番を託したいと思いました」(名良橋氏)

   内田は2番を背負い、Jリーグ史上初の3連覇を成し遂げる。10年にはドイツ・ブンデスリーガのシャルケに移籍。右肩上がりで成長し、日本代表にも10代で選ばれた。そんなサッカー人生で「篤人にとって、良い意味でも悪い意味でもターニングポイントになったと思う」と名良橋氏があげるのは、10年の南アフリカW杯だという。

「10代で当時の岡田(武史)監督から代表に選出されました。しかし、南アW杯予選までレギュラーだったのが、本大会ではサブに回りました。W杯にかける強い思いは4年後のブラジルW杯につながっていったと思いますし、南アの悔しさがあったから、ドイツ移籍後も成長し続けられたのではないかと、プレーを見ていて思いました」(名良橋氏)

   ブラジルW杯直前、内田はその後重くのしかかり続ける右膝のケガを負う。それでも本大会には3戦すべてに先発フル出場。1分2敗に終わった同大会の中で、日本代表としての意地を見せた。だがその後、実戦から1年9か月遠ざかるなど、年間通じて本来のパフォーマンスを発揮できる時はとうとうやってこなかった。

「タラレバですが、南アW杯にレギュラーで出ていたら、そこまで無理しなかったかもしれないし、南アの悔しさがあったからブラジルW杯はどうしても出たかったのかもしれない。本当にW杯への思いは強かったと思います。僕も現役時代、年を重ねるにつれて膝をケガしがちでした。でも篤人とは違う箇所だし、篤人のほうが厄介なケガでした。だからこそプレーできるようになったこと自体に驚きました。篤人は我慢強く耐えてきたんだと思います」(名良橋氏)
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